3章 大切にしてくれる人〜光の視点〜
クリスマスソングが絶え間なく流れる駅前の広場。
煌びやかなイルミネーションの下には、幸せそうに身を寄せ合うカップルたちの姿が溢れていた。
時刻はすでに21時半を回っている。
大きなクリスマスツリーの陰にある冷たいベンチに座りながら、私は震える手でもう何度目かもわからないスマホの画面を確認した。
青田からの連絡は、ない。
(……来ないんだ)
薄々は気づいていた。最初から、都合のいい暇つぶしだったのかもしれないと。
でも、ほんの少しでも期待してしまった自分がいた。
この日のために、普段は着ないようなドレッシーな服を買って、慣れないヒールを履いて、メイクだって念入りにして。
馬鹿みたいだ。
冷え切った冬の夜風が、無防備な足元を撫でる。
寒さと、それ以上に惨めさで、体の震えが止まらなかった。
涙が次から次へと溢れ出て、せっかくのメイクももうドロドロに崩れているはずだ。鼻の頭も頬も、きっと真っ赤で不格好に違いない。
早く家に帰らなきゃいけないのに、足の感覚が麻痺してしまって、ベンチから立ち上がることすらできなかった。
(私、何やってるんだろう……)
膝を抱え、ただただ下を向いて涙を堪えようとしていた、その時だった。
「っ……光!!」
クリスマスの喧騒を切り裂くように、切羽詰まった大きな声が私の名前を呼んだ。
ビクッと肩を震わせて顔を上げる。
「えっ……キノ?」
そこに立っていたのは、息を切らし、ネクタイを少し緩めたスーツ姿のキノだった。
いつも落ち着いていて完璧な彼が、なぜか必死な顔で私を見下ろしている。
(どうして、キノがここに……)
驚きと同時に、猛烈な羞恥心が私を襲った。
泣き腫らしてボロボロになった顔。誰かを待ちぼうけしている、情けなくて惨めな姿。
よりによって、こんな姿を、一番見られたくない彼に見られてしまった。
「あ……見ないでっ!」
私は咄嗟に両手で顔を覆った。
惨めな自分を見られたくなくて、痛む足に鞭を打ち、ベンチから立ち上がって逃げようとする。
「あっ……!」
でも、完全に冷え切った足と、慣れないヒールのせいで足首がぐらりと悲鳴を上げた。
バランスを崩し、冷たいアスファルトに向かって体が倒れ込む——そう覚悟した瞬間だった。
「っ!! 危ない!!」
強い力で腕を引かれ、私の体は宙に浮いたように前へと引き寄せられた。
次の瞬間、私の体は、驚くほど温かくて広い胸の中にすっぽりと閉じ込められていた。
「あっ……」
鼻をかすめる、キノの着ている上質なコートの清潔な香り。
彼の腕の中に収まった私の体はひどく冷え切っていたけれど、彼から伝わる熱は、凍えきった私を溶かしてしまうくらいに温かかった。
でも、だめだ。
こんなに完璧で綺麗な彼に、こんなボロボロの私で触れちゃいけない。
「……離してっ……こんな惨めなとこ、キノに見られたくない……っ」
私は弱々しく抵抗し、彼の胸板を押しのけようとした。
けれど、キノは私を放すどころか、冷え切った私の背中にそっと腕を回し、逃がさないように抱きしめる力を強めた。
彼の腕の強さから、絶対に離さないというような、何か切実な思いが伝わってくるような気がした。
「……光、もう大丈夫だ。俺がいるから」
耳元で、キノの深く、優しい声が響いた。
そのたった一言で。
「……うぅっ……キノぉ……っ」
せき止めていたダムが、音を立てて決壊した。
私はキノのコートの胸元を両手でぎゅっと掴み、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
みっともないくらい泣き叫ぶ私を、キノは何も言わず、ただ静かに、私の涙が枯れるまでその大きな手で背中を優しく撫で続けてくれた。
冬の冷たい夜空の下、輝くイルミネーションの光が、寄り添う私たちの影を優しく照らしていた。
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イルミネーションの喧騒から離れた、駅前の少し奥にある静かな公園。
私はキノに支えられるようにして、誰もいない冷たいベンチに腰を下ろした。
涙はまだ止まらなかったけれど、彼の腕の中にいたことで、震えは少しだけ治まっていた。
冬の風が冷たく吹き抜ける中、キノはふと立ち上がった。
「ちょっと待ってて」
そう言って近くの自動販売機へ向かった彼は、すぐに戻ってくると、私の前にそっと温かい飲み物を差し出した。
「あっ……ココア」
思わず声が漏れる。
「缶のやつがなくて、ペットボトルのやつしかなかったんだけど。寒いだろうから飲んで」
キノはそう言って、再び私の隣に腰を下ろした。
「……あったかい……」
渡されたホットココアを両手で包み込むと、凍えきっていた指先にじんわりと熱が伝わってくる。
小学生の頃、悲しくて泣いていた私に彼が差し出してくれたあの日のココアと同じように、その温もりは、私の冷え切った心までゆっくりと溶かしていくようだった。
隣に座る彼の静かで優しい気配に背中を押されるようにして、私はぽつり、ぽつりと、自分の惨めな過去を話し始めていた。
キノには、こんな情けない話、聞かせたくなかったはずなのに。
25歳で青田と再会し、彼が2軍で苦しんでいた時は必死に支えようとしたこと。
でも、彼が1軍に上がってからは扱いが雑になり、都合のいい時だけ呼び出されるようになったこと。
時折、他の女の人の影を感じていたのに、嫌われるのが怖くて、ずっと気づかないふりをしていたこと。
そして30歳の時、突然理由も告げられずに一方的に捨てられたこと。
「それでね……突然、彼から連絡が来て……」
声が震え、視界が再び涙で滲んでいく。
「クリスマスの今日、会いたいって。……何時間も待ったけど、連絡もなく、青田は現れなかった……」
自分の口から出た言葉が、改めて現実を突きつけてくる。
私は、ただ都合よく遊ばれ、馬鹿にされただけなのだ。
「そっか……」
隣で静かに聞いていたキノの声は、ひどく低かった。
ふと横を見ると、彼は自分の膝の上で、ギュッと強く拳を握りしめている。
昔から、人の痛みを自分のことのように察してしまう彼だ。私のどうしようもない話を聞いて、きっと彼まで辛い気持ちにさせてしまっている。
「うん……でもね、あんな扱い受けてたのに……高校の時の青田や、2軍の時に必死にがむしゃらに頑張ってた青田や、あの時一緒に過ごした日々が忘れられなくて……」
もうやめようと思うのに、せき止めていた本音が次々と溢れ出してしまう。
「だから……あの時連絡が来た時、もしかしたらっていう期待で嬉しくて……。でも……結果は、最初から分かってたよね……」
惨めさと情けなさで、私は再び両手で顔を覆って泣きじゃくった。
そんな私の背中を、キノの大きくて温かい手が、ゆっくりと、何度も「大丈夫だ」と伝えるようにさすってくれる。
彼のその優しさに甘えて、私はずっと誰にも言えなかった心の傷まで零れ落としていた。
「あー……私、青田のこと忘れられるかなぁ……。30の頃に別れを切り出されて、青田のこと忘れようと思ってマッチングアプリとか使って、他の男の人探そうとしたんだけどね……」
無理に笑おうとしたけれど、頬を引きつらせるのが精一杯だった。
「付き合った瞬間に態度変えられたりとか、職業とか嘘つかれたりとか、実は私が浮気相手だったりして……もっと傷ついちゃって。なんかもう、何もしんどいやってなっちゃって……」
こんな話、完璧でキラキラした世界にいるキノからすれば、ひどく滑稽に聞こえるだろう。
自分に自信がなくて、流されてばかりで、誰かにすがりついては傷ついて。
また軽蔑されるかもしれない。そう思った瞬間だった。
キノの手が、顔を覆っていた私の手を、そっと優しく、けれど力強く包み込んだ。
「えっ?」
驚いて顔を上げると、夜の闇の中でもはっきりとわかる、彼の真剣な黒い瞳と真っ直ぐに視線が絡んだ。
「……俺が、忘れさせるよ。……仮の恋人として」
静かな、けれど有無を言わせないような、はっきりとした声だった。
「……え? 仮の?……」
私は目を丸くして彼を見つめ返した。
仮の恋人? キノが、私の?
「だから、光が完全に前を向けるようになるまで、だ。マッチングアプリとか、素性もよく知らない男を頼るんじゃなくて……俺の方が、安心だろ?」
キノの言葉に、私の心臓がドクンと大きく跳ねた。
それはあまりにも甘く、傷ついた今の私にとっては、すがりつきたくなるほど魅力的な提案だった。
けれど——。
「たしかに、よく知ってるキノだったら安心だけど……! でも、キノは忙しいし、国際弁護士だし、それに……」
私なんかと釣り合うはずがない。
あんなに垢抜けて、誰もが振り返るような大人の男性になった彼に、私みたいな惨めな女が「仮」であっても恋人面をして隣を歩くなんて、おこがましすぎる。
あわあわと断る理由を探していると——ふいに、視界が彼のコートの胸元で覆われた。
キノが私の頭にそっと腕を回し、自分の肩の方へと優しく引き寄せたのだ。
「俺のことは気にしなくていい。俺を、頼ってほしいんだ」
耳元で囁かれたその低く甘い声と、彼のコートから香る清潔な香り、そして、背中を包み込む大きな手の温もりに、私の頭は真っ白になった。
(頼って、ほしい……?)
今までずっと、誰かの顔色を窺って、すがりついては振り払われてきた私に。
こんなにも完璧で優しい彼が、「頼っていい」と言ってくれている。
強張っていた心の芯が、甘い熱を帯びて溶けていくのがわかった。
彼といると、不思議なほど安心する。
これが「仮」の関係だとしても、彼が差し出してくれたこの優しい嘘に、今はただ溺れてしまいたかった。
「……うん……じゃあ、お願いします……」
彼の肩に額を預けたまま、私は小さな声でそう答えた。
冬の冷たい夜の公園。
イルミネーションの光も届かない静かなベンチで、私とキノの、幼馴染以上、恋人未満の『仮の関係』が静かに始まった。




