4章 幼馴染以上恋人未満 ②
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夕方。定時を迎え、私はデスクの下でカバンの中をゴソゴソと探って、静かに絶望していた。
(あちゃー……リップ、家に忘れた!)
お直しのメイク道具は、フェイスパウダーしか入っていない。
おまけに、服装も結局いつも通りのオフィスカジュアルになってしまった。クリスマスの夜、慣れないヒールとドレッシーな服で盛大に失敗してしまったトラウマがあり、無難な服しか選べなかったのだ。
私は慌てて女子トイレに駆け込み、鏡の前でパフパフとお粉だけをはたいた。
改めて鏡に映る自分の顔を見つめる。
(これから、キノに会うんだ……)
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるような変な緊張感に包まれていた。
学生の頃からずっと一緒にいた幼馴染のキノに会うだけなのに。でも、今のキノは、ただ見るだけで心臓がうるさく鳴ってしまうくらい、素敵な大人の男の人になってしまった。
(私、本当にキノの横に並んでも大丈夫かな……? 浮かないかな……)
そんな不安を抱えながら、会社のロビーへ向かうためにエレベーターに乗り込んだ。
その時、ピコンとスマホが鳴った。
『お疲れ。光の会社のロビーの入り口の前で待ってるよ』
キノからだ。
その短いメッセージを見ただけで、足早になるのに合わせて胸の高鳴りがどんどん大きくなっていく。
エレベーターを降りてガラス張りのロビーに出ると、遠目からでもはっきりとわかった。
完璧にスーツを着こなし、入り口の外に佇むキノの姿。
彼に向かって歩き出そうとした時、すれ違った同じ会社の女性社員たちのひそひそ声が耳に飛び込んできた。
「ねえ、さっき入り口にいたスーツの背の高い人、見た!?」
「見た見た! ガチイケメンすぎてビビったんだけど!」
「やばいよね、芸能人が撮影でもしてるのかと思った! 絶対仕事できるエリートでしょ……」
女性たちの黄色い声。間違いなくキノのことだ。
その言葉は、「私の自慢の幼馴染なんだよ」という誇らしい気持ちと同時に、ズン、と重い鉛のように私の心に響いた。
自動ドアを抜け、外に出る。
私に気がついたキノは、周囲の視線など全く気にする素振りも見せず、ニコッと柔らかく笑って片手を挙げた。
「お疲れ様、光。久々だね」
「う、うん……久々」
あまりにもその笑顔がかっこよくて、私はまともに目を合わせられず、照れて俯いてしまう。
「じゃあ、行こうか」
キノは自然な動作で歩き出した。
「うん!」と頷き、彼の隣に並んで歩く。
ふと、通りのショーウィンドウに映る私とキノの姿が目に入った。
手などは繋いでいないけれど、こうして二人で並んで歩いていたら、周りからは恋人同士に見えるのだろうか?
でも……キノは、こんな地味な私が隣を歩いていて恥ずかしくないのかな。
楽しいはずの初デートなのに、私の中にあった小さな自信はみるみるうちにしぼみ、モヤモヤとした感情が広がっていく。
すると、そんな私の空気を察したのか、キノが不意に足を止めた。
「じゃあ、ここからは車で行こうか」
彼がカバンから車のキーを取り出し、近くの駐車場に停めてある黒色のセダンへと歩いていく。
(わっ……絶対これ、すっごく高い車だ)
車に詳しくない私でも、その重厚感と艶やかな黒のボディから、一瞬で高級車だとわかった。
青田も今は1軍のスター選手として高級車に乗っているらしいけれど、私が知っている2軍時代の青田は、ごく普通の国産車に乗っていた。だから、こんなVIPが乗るような車を前にして、すっかり圧倒されてしまったのだ。
私が恐る恐る車の近くまで行くと、キノは不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの? ほら、乗って」
彼が助手席のドアを開け、スマートにエスコートしてくれる。
「あ、ありがとうっ!」
(絶対に汚しちゃいけない……!)という謎の使命感を抱きながら、私はカチコチに緊張してシートに乗り込んだ。
静かにドアが閉まり、キノが運転席に乗り込んでエンジンをかける。滑るように、車は東京の街へと走り出した。
窓の外には、キラキラと輝く東京の夜景が流れていく。
そして、反対方向を見ると——そこには、まるで彫刻のように完璧な横顔でハンドルを握るキノがいた。
(あれ……? キノって、こんなに直視できないくらいイケメンだっけ!?)
ただでさえ整った顔立ちが、夜のドライブというシチュエーションと合わさって、とんでもないキラキラモードを放っている。
私が動揺して見つめすぎたせいか、信号待ちでキノがこちらを向き、クスッと笑った。
「今日の光、なんか変だね。ずっと緊張してる?」
「えっ!」
図星を突かれた私は、一気に顔を赤くして慌てて首を振った。
「い、いやいやいや! 運転してるキノを初めて見たからびっくりしただけ! てか、いつ日本で免許取ったの!?」
「ああ、アメリカで国際運転免許取ってたから、それで。……もしかして、俺の運転じゃ心配?」
「運転免許すら持ってない私からしたら、恐れ多いです〜!」
冗談めかして笑い合う。
昔のキノはこんな風にからかってくることなんてなかったのに。アメリカでの長い生活が、彼を大人の男性に変えたのだろうか。
心臓のドキドキを必死に抑えながら、車は臨海部へと入っていく。
「あれ? そういえば、どこ行くの?」
「うーん……お楽しみに、ってことで」
キノは悪戯っぽく笑い、さらに車を走らせた。
やがて車がある場所に辿り着き、私は助手席のドアを開けて外に出た。
目の前に広がった光景に、さっきまでの緊張やモヤモヤが一瞬で吹き飛んだ。
「わあ……っ」
お台場海浜公園だ。
静かな水面の向こうに、レインボーブリッジが宝石箱をひっくり返したようにキラキラと輝いている。
「きれー……!!」
私は冷たい海風も忘れて、その景色に夢中になった。
……そういえば、昔、誰かに「この風景が見たい」って言ったような気がする。
「……わぁ、20年以上前に見たような気がするけど、綺麗だな」
風に髪を靡かせながら、私の隣でキノが小さく呟いた。
煌めく夜景を背にしたキノの姿は、一枚の絵画のように美しくて、すごく似合っていた。私は景色よりも、その彼の横顔に見惚れてしまった。
視線に気づいたキノが、「どうかした?」と私を見る。
「あっ、いや……なんでお台場なのかなって思って」
するとキノは、ふっと目を細めて優しく微笑んだ。
「昔、光、ここの夜景見たいって言ってたよね。だから」
その言葉で、一気に記憶が蘇ってきた。
ずっと昔、キノが相模原に引っ越してくる前に東京に住んでいたと聞いて、「私もお台場の夜景とか見てみたいなぁ」と無邪気に言った記憶だ。
「……覚えてくれてたんだね」
「もちろん。俺、記憶力いいし」
キノが一度見たものを忘れないという特殊な記憶力を持っていることは知っている。
それでも、「私との何気ない会話を覚えていてくれたんだ」と思うと、心の奥がじんわりと温かくなった。
「……嬉しい。キノと来れて!」
私は、心の底からの自然な笑顔を彼に向けた。
つい1ヶ月前までは、嘘をつかれたり雑に扱われたりして、あんなに息をするのも苦しかったのに。キノの隣にいる今は、本当に、ただ幸せな気がする。
すると、私の顔を見たキノが、なぜかハッとしたように目を見開き、フリーズしてしまった。
(どうしたんだろ……?)
不思議に思って彼を見つめ返した、その瞬間。
——ぎゅるるるる〜っ。
静かな海辺に、とんでもなく間の抜けた音が鳴り響いた。
私の、お腹の音だ。
「〜〜〜っっ! ご、ごめん!! 雰囲気台無しだよね……っ!」
私は一瞬で茹でダコのように赤面し、慌てて自分のお腹を押さえた。
そんな私の姿を見て、フリーズしていたキノは肩を震わせ、指で目元を拭うようにして吹き出した。
「ふっ……くくっ……相変わらず、変わらないなぁ、光は。……よし、そろそろご飯食べに行くか」
「も、もう!! 早くご飯行く!!」
恥ずかしさで顔から火が出そうになりながら、私たちは笑い合ってお台場を後にした。




