Ep.447 勇者は紡ぐ
何もない。
音も熱も、重さもない。
ただ一面、果ての見えない白だけが広がっていた。
「……ここは」
声を発した筈なのに、それが自分のものなのかすら分からない。
……手元を見る。
先程まで握っていた筈の鎚は消えていた。
けれど、不思議と左手にはまだ、鎚を振り下ろしている感覚が残っている。
「来たか、我が主よ」
白い世界に、聞き慣れた低い声が響いた。
振り返ると、どこからともなくアグニが現れる。
「クサビ〜! ようこそ〜!」
別の方向からジオの声がして振り向く。そこにはアグニと同じようにジオがふっと現れた。
「ここは現実に非ず。私達精霊の世界だ」
エクリプスがジオの横に出現しながら、この場所の事を教えてくれた。
「まあ、精神世界、と言うのが正しいかなっ!」
「現実の時は止まっているわ。クサビがした私との試練の場のようにね」
「お、お姉さまとふ、二人っきりとか最高に羨ましいけれど……っ! ……今はそれよりも重要なことがあるのよ……」
続いてゼファイア、リーヴァ、アウレアが姿を見せ、それぞれの祖精霊が、僕を囲むように現れた。
いつもならここで誰かがアウレアを茶化していただろう。
……だけど、今回は誰も何も言わなかった。
「「「…………」」」
六体の祖精霊が、ただ静かに僕を見つめている。あの賑やかなジオや、飄々として軽薄なゼファイアに、落ち着かないアウレアさえもが、神妙な視線を僕に貫いたのだ。
その眼差しに、僕は思わず息を呑んだ。
皆、僕がよく知る精霊達のはずなのに——。
——今だけは何かが違った。
それは僕の仲間としてではなく、遥か昔からこの世界を見守り続けてきた祖精霊としての眼差しだった。
「……皆が、救世鋼を打つのを止めたんだね?」
僕は静かに問い掛けた。
「然り」
答えたのはアグニだった。
「救世鋼は我ら六祖の力、そして意思を宿すもの。故に我らの意思なくして、あれが形を変えることはない」
「……やっぱり」
僕の予想は当たっていた。
ゼクストさんが言っていた通りだったんだ。
「じゃあ、どうしてゼクストさんを拒んだんだい? ゼクストさんは僕と一緒に、ずっと――」
「勘違いするな、主」
エクリプスの静かな声が、僕の言葉を遮った。
「あの者の役目は、我らを一つにすること。そしてこれより先は――」
エクリプスの陰の奥にあるであろう瞳が、真っ直ぐに僕を捉えたのを感じた。
「主の役目だ」
「……僕の」
「ああ」
僕は自分の左手を見る。
そこには何もない。
だけどまだ、あの鎚を握っている感覚だけは確かに残っている。
「……それじゃあ、これは皆からの試練なの?」
「ううん」
試練と構えていた僕に、ジオが首を横に振った。いつもの無邪気な様子はなく、笑顔も浮かべていなかった。
「クサビのことなら、もういっぱい知ってるよ。クサビがどんな人なのかも、どんなことしてきたのかも」
「僕らは今更、キミの力量を試そうというのではないんだ」
ジオの後にゼファイアが続ける。するとアグニの頭の炎が揺れる。
「我らは既に汝を認めている」
「だったら——」
「——確認だ」
その一言が、白い世界に響いた。
「……確認?」
「左様」
アグニは腕を組み、僕を見据えた。
「これより生み出される剣は、再び魔王を封ずる為の剣。そしてそれを手にするのは他でも無く、汝だ」
「…………うん」
「故に最後に問わねばならぬ」
アグニの纏う炎が、ゆらりと揺れた。
「汝が何を恐れ、何を背負い、そして何を成そうとしているのかを」
何故だろう。その言葉を聞いた瞬間、胸の鼓動が強くなった。
戦いじゃない。
何かを倒せと言われたわけでもない。
なのに、これまで受けてきたどんな試練よりも緊張している自分がいた。
「……分かったよ」
僕は皆を見渡して頷いた。
「何でも聞いて。僕は……その為にここに来たんだと思うから」
「そうでなくてはな」
アグニが一歩前へ出る。
僕の前に立った火の祖精霊は、燃え盛る瞳で僕を見据えた。
「では我から問おう」
「うん」
「我が主よ」
一拍の沈黙が流れた。
「――汝は、魔王が恐ろしいか?」
「…………」
思ってもいなかった問いだった。
僕は言葉を失い、アグニを見つめる。
……魔王が、怖いか。
「…………怖いよ」
考えるよりも先に、言葉が口から零れ落ちていた。
紛れもない、僕の本音だった。
「怖い」
もう一度、はっきりと口にする。
——脳裏に浮かぶのは、あの日。
魔王が故郷に現れた日のことを。
平和な村に突然響いたのは悲鳴、断末魔。
僕は皆の犠牲の上に逃がされ、生かされて……それで……。
……魔王は目の前に現れた。
存在を感じるだけで身体中から汗が出て、顔の部分の闇よりも濃い漆黒の渦を直視すれば、精神を根こそぎ持っていかれそうになった。それほどの恐怖。
圧倒的な力。
僕達がどれだけ抗っても届かなかった存在。
僕を生かすために立ちはだかった父や仲間が、魔王の前に虫を払うかの如く倒れていった。
そして母さんも——。
「今だって……思い出すよ。魔王の前に立った時のこと」
手が震える。
あの時の恐怖を、身体が覚えているみたいに。
「今度はあの恐怖に負けるかもしれない。今度こそ僕が死ぬかもしれない。……僕だけじゃない。サヤも、ウィニも、ラシードも、マルシェも……皆が死ぬかもしれない」
大切な人を失うのが怖い。
そんなの、怖いに決まっている。
「それだけではあるまい」
アグニが静かに告げる。
「……うん」
僕は拳を握った。
「僕が負けたら……世界が終わるかもしれない」
それが、一番怖い。
僕達が敗れれば、魔王を止める者がいなくなる。
僕の知らない誰かも、僕を応援してくれた人も。
故郷を追われた人達や、これから生まれてくる筈だった命だって。
全部、魔王に奪われる。そんな結末が確実にやってくる。
「怖いよ……。正直僕なんかに、本当にそんなものを止められるのかって。今でも思う」
「ならば——」
アグニの声が低く響いた。
「逃げるか?」
「――逃げない」
アグニの言葉に被せるように、僕は否定した。今度は考える必要なんてなかった。
「何故だ」
「……怖いからだよ」
「……ほう」
「この恐怖を忘れないからこそ、逃げたくないんだ。逃げたら僕は勇者なんて名乗れない。それに——」
僕は震えていた拳を強く握り締める。
「皆が傷付く。皆が死ぬ。世界が壊される。……そんな未来が訪れるのが怖いから……だから僕は戦うんだ」
怖くないわけじゃない。
僕は強いから立っているわけでもないし、今だって怖い。
きっと魔王を目の前にしたら、また膝が笑い出すだろう。
逃げ出したくなるかもしれない。
「でも……それでも一歩、前に出るんだ」
僕はアグニを見据えた。
「怖くても剣を握る。恐ろしくても魔王の前に立つ。……僕は、怖さを知ってなお進むこと。それが勇気だと思ってる」
「…………」
アグニは何も言わなかった。
ただ、僕を見つめている。
そして――。
「フッ」
口元を僅かに吊り上げた。
「それでこそ我が主よ」
「……アグニ」
「恐怖を知らぬ者に勇気など必要ない。恐れを知り、それでも進む者なればこそ――勇気を持つ者と呼ぶに相応しい、か。まさしく我が求むるはその言葉ぞ。……我は押そう。我が主の背をな」
アグニはそう言い残すと、一歩後ろへ下がった。
……認めてもらえた。
そう思った、その時。
「では、次は私が問うわね」
今度はリーヴァが前へ出た。
水のような髪を揺らしながら、水の祖精霊は僕の前に立つ。
「クサビ?」
「……うん」
「貴方は先程、己が敗北すれば世界が終わると言ったわね」
「……うん」
「その意味を、本当に理解しているのかしら?」
「え……?」
リーヴァの瞳は閉じられたまま、表情一つ変えない。
「今や貴方を勇者と呼ぶ者は数え切れないほど存在しているはず。この時代ではなく、貴方の生まれた時代で」
静かな言葉が続く。
「貴方に魔王を倒してほしいと願う者」
「…………」
「クサビならば世界を救ってくれると信じる者」
「…………」
「貴方の背に、明日も生きようと希望を抱く者」
一つ一つの言葉が、胸の中に積み重なっていく。
「それだけではないわ」
リーヴァは続けた。
「貴方の仲間もそう。残してきた、大切な人達がいるのでしょう?」
サヤ、ウィニ、ラシード、マルシェ。
大切な希望の黎明の皆だ。
それにチギリ師匠とアスカさん、ナタクさんにラムザッドさん。
皆の顔が浮かぶ。
「貴方が帰ってくると信じている者がいる。貴方と共に戦うと決めた者がいる。その命を貴方に預ける者すらいる」
「…………」
「——その全てを背負える?」
僕は答えようとして、声が出なかった。
軽々しく答えられるものではないのだと、嫌という程理解してしまったから。
「…………っ」
重い。
途方もなく、重い。
僕は今まで世界を救うと言ってきた。
皆を守ると言ってきた。
でも世界って、なんだ?
国じゃない。
大地じゃない。
そこに生きる、一人一人が抱く世界だ。
顔も知らない人達。僕のことなんて知らない人だっている。
それでも、その人達の命まで僕のこの両肩にかかっているんだ。それは想像を絶する程に——。
「重いわよね……」
「……うん」
僕は俯きながら素直に頷いた。
「凄く……重いよ」
「なら、捨てる?」
「…………っ」
僕はその言葉に、聞き違えたのかと顔を上げてリーヴァを見つめた。
「勇者という名を捨てればいいの」
リーヴァは淡々と言う。
「貴方はまだ若い。元を辿れば小さな村に生まれた、ただ一人の少年に過ぎなかったわ」
「…………」
「世界の命運なんて、貴方一人が背負う道理はないのよ」
……そうだ。
本当なら僕はただ、村で暮らしていただけだった。
サヤと一緒に。
朝起きて、父さんと畑仕事を手伝って、時々剣の稽古をして。
いつものようにサヤにどやされて、くだらないことで笑って。
そうしていつか大人になって……そして……。
サヤと……。
「その荷を降ろしても、誰も貴方を責める権利なんてないわ」
「…………それでも」
僕は拳を力いっぱい震わせながら声を出した。
「僕は、降ろさない」
「どうして?」
「……一人じゃないから」
リーヴァの目が僅かに開かれた。
「確かに重いよ。……僕一人だったら、とても背負えない」
だけど。
「——皆がいる」
サヤがいる。
ウィニがいる。
ラシードがいる。
マルシェがいる。
師匠達がいる。
これまで僕と一緒に戦ってくれた、沢山の人達がいる。
背を押してくれた沢山の人達がいる。
「僕はずっと、皆に助けてもらってきた」
僕一人で勝った戦いなんて、一つもない。
「僕が皆を背負っているんじゃなかったんだ。それを希望と変換して、勘違いしてたんだ」
今になって、分かった。
「皆の期待を、希望を背負ってたのではなくて、僕が……僕自身が皆から貰った希望を、集めて背負っていたんだ」
「…………」
「だから重くたって潰れない。皆からの希望があるから、僕は勇者でいられるって、そう信じてる」
胸に手を当てる。
「離れていても……それこそ500年も離れていても、僕はこの集めた希望達に救われているんだ」
だから。
「重くても、背負うよ」
僕は笑った。
「皆と一緒なら、きっと背負えるから」
「……そう」
リーヴァは短く答えた。それだけだった。
でも僅かに緩んだその表情を見れば、それで十分だった。
リーヴァが下がる。
そして僕は六人を見渡した。もう確認は済んだのだろうかと。
アグニとジオ。
エクリプスにゼファイア、その隣のリーヴァへと視線を移していく。
そして――。
「…………」
アウレア。彼女だけが俯いていた。
「……アウレア?」
「…………ねえ」
小さな声だった。いつものような騒がしさも刺々しさもない。僕の知っている彼女とは思えないくらい、今にも消えてしまいそうな程の弱々しい声だった。
「クサビ……」
やがてアウレアは顔を上げた。
「最後に……わたしから聞かせて」
「……うん」
「アンタは――」
言葉を詰まらせる。
その表情は今にも泣き出しそうに見えた。目は前髪で完全に隠れて窺い知れないが、彼女は下唇を噛んでいた。
「……あの子を」
あの子。それが誰を指しているのか。
聞かなくても分かった。
かつて、彼女達と同じ場所にいた存在であり、祖精霊達の同胞。
そして今は世界を滅ぼそうとしている存在……。
アウレアは胸元で両手を握り締める。
「魔王を……どうするつもりなの?」




