Ep.439 Side.A 転がる玩具
瞬間、ぞわりと激しい悪寒がわたくしの背を駆け巡り、振り向きながら声の主と距離を取るように飛び退きました。
いつのまに接近を許したの――?
目の前には、貴族が身に付けるような漆黒のドレスを纏い、紫色の長い髪からは二本の魔族の角。口元を薄く隠した黒のヴェールの奥の口角は上がっていて……。
それは見事な優雅な佇まいで、髪と同じ色の瞳がわたくしを捉えていました。
その背後からうじゃうじゃと魔物が湧いて出てきて、わたくしは今置かれた状況が、致命的な危機であるといやがおうにも思い知らされたのです。
「魔族幹部……リリス……」
「あら。私のことをご存知なのですか? それはそれは……光栄の至りに存じます」
リリスは美しいほど様になった優雅なお辞儀をしてきますけれど、その気配や眼差しから、この存在は危険であると、わたくしの鼓動が警鐘を鳴らしておりました。
リリスから目を離さないまま、言霊返しの起動を試みていますが、あまりに強すぎる魔族幹部の魔力のせいか、精霊具にはなんの反応も起きません。
チギリが伝えたかったのは、この事だったのだ。
そう気付いてももはやあとの祭り、ですわね……。
「こんな廃墟で何をされていたのかしら。それもお一人で。……いけませんね。不用心ですよ?」
「……貴女こそ、こんな辺境まで何の御用ですの? 魔族にこのような場所に用事はありませんでしょうに」
わたくしは警戒しながら杖に手を伸ばして引き寄せます。
直ぐに仕掛けてこない辺り、この魔族はわたくしからなんらかの情報を得ようとしているのかもしれません……。
そして警戒と同時にわたくしは己の迂闊さを呪い、死の予感からどう抜け出すか、必死に考えを巡らせていたのです。
「通りがかりでしてよ。そう、偶然。ふふふ……」
しかし、リリスはそう口にしながらも笑みを消さず、こちらへとゆっくりゆっくりと近寄ってきて、わたくしはその分後ろに下がります。
「そ、そうですの。ではわたくしに気にせずどうぞおゆきなさいな」
「いえいえ、丁度よく玩具が見つかりましたので、もう少しここで遊んで行く事にしますね? いいでしょう?」
じり……とゆっくりと近づいてくるリリス。
そして魔物たちが徐々にわたくしを取り囲むかのように散開していきます。
わたくしは冷や汗を垂らしつつも、リリスへと問い詰めました。
「……一体、何のご用でしょうか」
リリスはわたくしの言葉に、笑みを深めて、こう告げました。
「先程から気になっておりましたの。誰も居ないのに、まるで誰かとお話をしているような口振り。……もしや」
わたくしの首筋がぴくんと跳ねる。
リリスはわたくしの反応を見逃さず、おかしそうに目を細めました。
「その首にかけてあるそれ……。そこから微弱な魔力を感じましたわ。それ、ただの飾りじゃ無さそうですね?」
「…………っ」
「沈黙。……当たり、ですか……フフフ」
リリスはわたくしの動揺を知ってか知らずか、愉快そうに口元を手で押さえます。
……魔族はこの精霊具――言霊返しを知らない。人間は離れた場所から言葉を交わすことが可能である、という情報を渡す訳にはいかない。……しかし、どう打開すればよいのでしょう。
「それ、試しに使ってみて下さいな。……ああ、魔力は抑えて差し上げますので。……はい、どうぞ?」
その言葉の真偽を裏付けるように、わたくしにのしかかる圧が弱まっていくのを感じます。
……上品な口調ではありましたが、リリスのその目は捕食者の目そのもので、わたくしが思惑と違う事をすれば、直ぐにこの命を刈り取るつもりなのが透けて見えます。
誤魔化しは無意味でしょう。……やむを得ない。
……ここには誰も来ない。時間稼ぎをしても意味は無い。
ならば、せっかく貰った最後の機会に、最後に……後を託すべく――。
「――チギリ」
「――アスカ! 無事だったか! 今何処にいるのだ! ――」
言霊返しを起動させ、チギリとの通信を行うと、リリスはそれを目を細めて眺めていました。
「……申し訳ありませんわ。後は……お願い」
「――ッ! 何を言っている……? アスカ! ……アス――」
……チギリの言葉を最後まで聞かず、言霊返しに魔力を流すのを止めます。
そしてわたくしは魔族幹部へと視線を向けました。
「やはりそれは……遠くの方と会話が出来る代物。……なるほどなるほど。昨今の人間の動きが妙に連動している理由は、そういう事でしたか……教えて下さりありがとうございます」
「…………」
「お仲間さんとのお別れは、あれで済みまして?」
そう言い終わったリリスの雰囲気がガラリと変わった気配を感じ、わたくしは杖を構えました。何故なら、明らかな殺気がこの身を貫いたのですから。
「ではお礼に……貴女に絶望を差し上げましょう。いい顔を見せてくださいね?」
わたくしとて、ただでやられる訳には参りません。
「――結界!」
迫り来る魔物に合わせて、わたくしは杖を地面に突き立て、神聖魔術の結界を発動させます。
弱い魔物ならばこれで消え去るでしょうが、ここにいる魔物は結界に触れた程度で消えるような雑兵ではない。肌を焼かれ呻きながらも、なおこちらへ踏み込んで来る。
ですが、それでも動きは鈍った。それで十分です。
しかし、リリスには全く効いていませんでした。本人は涼しい顔で艶やかに笑みを浮かべています。
「フフフ……」
「くっ……!」
わたくしはすかさず風を操り飛翔し、魔物の包囲を脱出し、距離を確保するように移動しながら杖を目標に向けました。
……本来瘴気に有効とされる神聖魔術が、リリスにとっては意味を成していないのね。
「――光よ! 『聖光陣』!」
わたくしは周囲に光球を複数出現させます。
その光達から次々と光弾が射出され、迫り来る魔物を吹き飛ばしていきます!
その間にわたくしは追従する光球を伴いながら駆け出しつつ、新たに生み出した光球をその場に設置するを繰り返して、至る所から光弾を撃ち出す状況を形成することに成功しました。
魔力を出し惜しんでいる余裕はない。
ここでリリスを倒す。わたくしの命に代えても!
「あら、綺麗ですこと」
しかしリリスに迫る光弾は尽く、彼女が軽く腕を払う動きで吹いた瘴気の風に掻き消され、光が届くことを許しません。
周囲の魔物が悲鳴を上げる中、ただ一人愉悦に微笑んでいるのです。
わたくしの額に冷や汗が流れるのがわかります。
「私ばかりに気を取られすぎですよ?」
「――っ! あぐっ!」
リリスの言葉に振り向くと同時に、背後から振るわれた、魔族に近い人型の魔物の一撃を辛うじて身を捩って躱すそうと試みますが……。
その鋭い一撃は腕を掠め、鮮血が宙を舞うと共に激痛が走ります。
「——っ! はぁ!」
その目の前の魔物に反撃の氷塊をぶつけて排除しますが、次々と魔物達が迫り、聖光陣の迎撃も追いついていない状況でした。
「余所見とは悲しいですね。私を見てくださいな……」
次の瞬間わたくしの背後から耳元でリリスに囁かれ、背筋に悪寒が走り、咄嗟に振り向いたのです。
――同時に目一杯の防御障壁。その判断が、辛うじてわたくしの命を繋ぎ止めたのでしょう。ですが……。
「――ッ!? ぅ……あ"ぁぁーーっ!」
リリスの足元から、血のように赤い魔力の棘が這い出て、わたくしの四肢を貫いていたのです。
わたくしの心臓を狙った棘だけは、防御障壁によって手前で止まっていました。
魔力の棘はすぐに霧散し解放されたわたくしは、直ぐ様圧縮した風の球を出現させ、爆発させて風圧を起こして自分の吹っ飛ばして距離を取ったのです。
そして回復魔術を行使しつつ、リリスと魔物を睨みつける。
「フフフ……いいですね。私好みの表情になってきてますよ。……もっと貴女の心が折れる様を見たいッ! アハッ、アハハハッ」
リリスは口元のヴェールの奥の口が裂ける程に、その美麗な顔を醜く歪めて嗤い、一頻り嗤うとピタリと声を止めたのでした。
「……ふぅ。失礼」
彼女は口元を手で隠して妖艶に笑うと、右手を高く掲げました。
「こうかしら?」
そして、その右手から無数の黒い球体が出現し、わたくしに狙いを定めます。
それはまるでわたくしの魔術、聖光陣に酷似しておりました。
その黒き球体は、聖光陣と同じ挙動を再現します。
そしてそれらは次々に射出され、わたくしは回避しながら聖光陣で迎撃を試みます。
しかし光と闇の弾がぶつかり、相殺するどころか、わたくしの光弾をかき消してわたくしに襲い掛かって来て、全てにおいて劣っている現実に、目を見開き唇を噛むしかありません。
「フフフ! さあさあ急がないと当たってしまいますよ? フフフ……フフフフ!」
リリスは貴族然とした姿勢で立ちますが、その表情だけは魔族の本性を隠し切れないように歪ませて、愉快そうにほくそ笑みを漏らしていました……。
……ダメ。刺し違えるなど、それすら烏滸がましい程に力量の差は歴然で、万に一つも勝ち筋が見えない。
攻撃が……届かない――。
「――あっ!」
闇弾を必死に回避していたわたくしは、飛び退いて着地した先で、魔物が待ち構えているのに見えていなかったのです。
「――――っ!」
抑えていたバネが跳ねるように、全身を投げ出して転がり、なんとか魔物の攻撃から逃れました。
しかし、そんなわたくしの目の前に再びリリスから大量の闇弾が迫り、それはもう目の前まで……。
……あぁ……もう…………。
——瞼を開く。
ぼやけていた視界が、徐々に鮮明になり、それにつれてわたくしの全身から激痛が駆け巡ります。
「ぁ……ぁああぐッ……はぁっ……はぁっ……」
どうやらわたくしは、闇弾を受けて廃墟の中に吹き飛ばされてしまったようです。
瓦礫にもたれるようにして倒れていました。
「ベッドにしては少しゴツゴツし過ぎではなくて? 綺麗なお召し物がこんなに汚れてしまって……お可哀想に」
「…………」
あからさまにわざとらしく不憫そうな声色をわたくしに向けるリリスは、涼やかな目でわたくしの前に立っておりました。
「綺麗な顔立ちもこんなに傷付いて…………愉快――いえ不憫でなりません」
「……もうお話することなど、ございませんわよ」
もはや体は動かない。緩やかに近づいてくる死が、もうすぐそこまで。
でも。このまま一矢報いずに死ねるものか。
わたくしの言葉に、リリスは興が削がれたと言わんばかりの表情で眉を顰めた後、その口から嘆息を吐きました。
「……白けましたわ。……無様に骸をさらしなさいな」
「ええ! 貴女も一緒に……ですわッ!」
わたくしは意を決して身体中の魔力を練り上げます。
わたくしから魔力の波動が衝撃派となって周囲に伝わって行きます。
練って、練って、枯渇を自覚しても、さらに練って。
命が削れていく。それでも練り続けて――。
どうせ直ぐに尽きるこの命。ならば燃やし尽くそう。長き寿命の残り全てを――!




