◆5◆
「よろしいですか? ベルナルド様が自由を許される時間は30分です」
後部座席のドアを開けたロバートが懐中時計を見ながら言った。
「ああ、わかってるよ」
「お時間になっても戻られませんでしたら、強制措置を取らせていただきますので――後悔なさいませんよう」
「……万が一、そんな事になったとしても絶対にアゲハの前では変な事をするなよ!」
何をするつもりなのかをもう少し詳しく聞きたかったのだが、こんな会話をしている間に3分が経っていた。あと27分しかないじゃないか!
それなのに――。
「時間が無いっていうのに、どうして部屋にいないんだ……」
アゲハの部屋は暗かった。呼び鈴を押しても反応がなかったから僕は合鍵を使って中に入ったけれど、当たり前だがアゲハは部屋にいない。いないどころかまだ帰ってきていないようだった。
「くそっ!」
ワックスで撫でつけた髪をくしゃくしゃと掻き混ぜる。自分でもイラついているのがわかった。
アゲハは……ヨシノと一緒にいるのかもしれない。
ヨシノが最後に放った言葉が脳裏をよぎる。誰と誰が恋人同士だって?
「……なんでだよ!」
腕時計を見ると10時を少し過ぎていた。
……遅すぎる。こんな時間になってもまだ帰っていないなんて、どこで何をしているんだアゲハは!
僕はリビングを行ったり来たりしながら力任せにネクタイを引っ張って緩めた。
もしも今、本当にヨシノと一緒にいたら……? けれどアゲハは息を切らせながら僕を追いかけてきた。ヨシノはアゲハと恋人同士なのだと言った……それは本当なのか?
彼の僕に対する挑戦的な目を思い出せば、それだけで不愉快な気持ちになった。
こんな事になるのならぐずぐずしていないでアゲハを攫ってしまえばよかったんだ。この際、金にモノを言わせたっていい。僕以外の男が触れない場所に閉じ込めておいた方が――。
そんな自己中心的な感情が僕自身を支配し始めた時、どこからともなくアメージンググレースが聴こえた。
その曲は、アゲハに教えてもらって設定した携帯電話のメール用の着信音だ。
音を辿ってアゲハの寝室に入り、クローゼットを開けるとより鮮明に聞こえるようになった。
「僕の携帯がこんなところに……」
クローゼットの箱の中には僕が探していた携帯と砕けて粉々になったロジンがあった。そう言えばアゲハが落として割ってしまったと言っていたっけ。
割れたロジンなんてもう使えないのだから捨ててしまえばいいのに、アゲハは細かい欠片まで集めてビニール袋に入れて保管していたようだ。その気遣いが嬉しくて心が温かくなる。
メロディが鳴り終わった携帯にはアゲハからのメールが届いていた。
――もうすぐかえります――
アゲハが帰ってくる、ここに……。
そのメールを見て、僕の鼓動が早鐘のように胸を打った。
僕は……一体ここで何をしているんだ?
勝手にアゲハの部屋に入って帰りを待っていたけれど、ここにいる事を許されたわけではない。
アゲハはもうすぐここに帰る――誰と? 恐らくヨシノと、だ。
目の前が真っ暗になった。アゲハの寝室が、リビングが――景色がぐるぐると回っている。けれどそれは気のせいで、僕はよろける事もなく玄関で靴を履くとしっかしとした足取りでアゲハの部屋を出る。
階段を降りようとしたところで鍵をかけ忘れた事を思い出して戻った。
車内にいるロバートが気付いて運転席のドアを開けたのとほぼ同時に、僕は自分で後部座席のドアを開けて革張りのシートにどさりと沈んだ。
「……いらっしゃらなかったのですか? 出発してもよろしいですか?」
僕のおかしな様子に気付いたのだろう、ロバートはルームミラー越しに視線を合わせて尋ねる。
「いや――時間が許す限りここで待つ」
自分の目で確かめなければ信じない。
果たしてアゲハが一人で帰ってくるのか、それとも違うのか――。
アゲハのメールを受信してから数十分ほど経った頃、ヘッドライトに照らされた前方に人影が現れた。
男の方は見覚えがあった――ヨシノだった。
そして手をつないでいる相手は――。
「ベルナルド様、お時間です」
「ああ……出してくれて構わない」
許可を出せば、待ってましたと言わんばかりにロバートはアクセルを踏んだ。
一方通行の細い道ですれ違った時、二人は抱き合っていた。
「本当だったのか……」
アゲハの部屋で待っていなくて本当に良かったと思った。
もしも鉢合わせしてしまっていたらアゲハに申し訳ない。恋人以外の男が部屋にいるなんて許される事ではないのだから。
僕は静かな車内でじっと目を伏せていた。眩しさを感じて目を開ければ、車は住宅街を抜けて明るい大通りを走っている。
汗ばむ手でずっと握っていた携帯電話の存在を思い出し二つ折りのそれを開いた。
「1通じゃない……?」
受信メール一覧には未読メールが35通と表示されていた。それはすべてこの1週間でアゲハから送られたメールだった。
朝の挨拶、寝る前の挨拶……それから、きっと一緒に住んでいたら聞いていたであろうささいな話。
「これは……」
すると、一瞬メール画面が消えて着信中の画面に切り替わった。
パッフェルベルのカノンを聴きながら僕は混乱と動揺で硬直した。
アゲハはどうして僕の携帯電話をクローゼットに閉まっておいたのだろう。二度と見たくないと思ったから? それならば、アゲハはどうしてこんなにも沢山のメールを送っていたのだろう。
この着信は――僕が携帯を持ち出したことを知ったから? 勝手に部屋に入った事を怒っているから?
着信音は数秒間鳴った後、ピタリと止まって留守番電話サービスに転送された。僕は迷った後、伝言を再生させた。
じっと耳を澄ませてそれを聞く。自分の耳が信じられなくて、そのあと2回、同じメッセージを繰り返し聞いた。
アゲハは僕の事が好き……?
夢ではないのだと納得した僕は、アゲハに電話を掛けようと震える手で携帯を操作して着信履歴を表示させた。僕たちの間には誤解しかないのだと思ったからだ。
それなのに……。
「くそっ! どうしてこのタイミングで電源が切れるんだ!」
携帯電話は最後にアラームを響かせて動かなくなったのだ。
「ロバート、今すぐ戻って欲しい!」
「だめです。時間がありません。このまま高速に乗って成田まで飛ばします」
「頼むよロバート!」
彼は何も答えなかった。
成田空港で僕はロバートに電源の切れた携帯電話を渡した。
「ロバート、僕が搭乗手続きをしている間にこの携帯電話に届くメールをイタリアでも確認できるようにしておいてくれ。ミラノについたらモバイルパソコンで確認する。もしもミスしていたら――そのままフィジー行きの飛行機に乗り換えてやるからな」
無表情にそれを見下ろすロバートに「甘やかされて育った末っ子の行動力をナメるなよ」と付け加えたら、彼の顔色が一瞬にして変わった。
こういう脅しは今後も使えるかもしれない。
いい兆候だ、覚えておこう。
そして数時間後、ミラノ・マルペンサ国際空港に到着すると、僕はパソコンでメールをチェックした。転送されたメールには、おやすみ、というメッセージと朝起きて作ったらしいホットケーキの写真付きメッセージの2通だった。
どうやらロバートはうまくやってくれたらしい。
イタリアに戻って2週間、アゲハのメールは毎日のように届いた。たまに届く写真付きのメールのお陰で、僕はアゲハのアパートにいる気さえしてしまう。けれど、どうしてもそのメールに返信はできないでいた。
「母さん……好きな人がいるんだ」
「まあ、日本で? 日本人なのね? ベルったらどうしてもっと早く言わないの?」
それでも僕は、アゲハから届くメールが嬉しくて誰かに話したくなっていた。
「ああ、ベルナルドったら……その子の写真はないのかしら?」
紅茶のカップをソーサーに戻した母は、嬉しそうな声で興奮気味に質問をする。
僕は開いたままのノートパソコンを母親に向けて見せた。
液晶画面には「なんじゃたうんです」というメッセージと共に届いた、アゲハとネコのキャラクターのツーショット写真だ。
「まあまあ、かわいらしい子じゃないの。彼女はキモノを持っているのかしらね?」
ほう、と息を漏らす母の姿は、先の未来に想いを馳せているだろう事が手に取るようにわかる。
僕とアゲハが今後どうなるかもわからないと言うのに……。
「彼女は振り向いてくれるかな? 僕は何も持っていないから」
「何を言っているの、自信を持ちなさいベル。そうだわ、偉大なる二人の兄さんに女性を口説く方法を聞いてみたらどう?」
「それは絶対に嫌だ!」
突然声を荒げた僕に、母は驚いて目をぱちくりさせた。
「あんな……女好きには聞けない」
それにアゲハにも会わせたくない。
「まったく、まだまだバンビーノなのね。いいこと? 努力もしないで好きな子を振り向かせられると思っているのなら大きな間違いよ。それが嫌ならアドバイスは真摯に受け止めなさい! 例え女たらしのアドバイスであろうと、よ」
それから母は、誰に似たのかしら、と言葉を続けた。
「ベル、バイオリンに傾けた情熱を彼女にも向けなさい」
そう言ってウインクすると、母はパン、と手を叩いた。
「さあ、家族揃ってのディナーの時間よ! あなたはさっさと着替えなさい」
着物姿の日本人女性が息子の花嫁になる――という夢を持つ母は、その夢見る乙女の仮面を脱ぎ捨てると、母親の顔に変わって言い放った。
アメリカから帰ってきたばかりの次兄を迎えるための家族だけで行われる食事会は、フィオーレロイヤル・ミラノのレストランで行われた。
長兄は僕と入れ替わるようにしてイタリアに戻ったが、次兄は普段アメリカにいる。家族がこうして揃うのは年に数回しかないのだ。
「いいかベル、日本人にプロポーズをするなら、結婚を前提にお付き合いして下さい、と言わなければならないんだ。あとバラの花束も必要になる。これは日本におけるシキタリだ」
日本人を母親に持つ父がワインを飲みながら言った。
「結婚を前提に……か。わかった」
ならば花束は駅前のフランソワで用意しよう。
結婚を前提に――結婚を前提に――……。
パスタ皿にあるアサリの殻をフォークでつつきながら、心の中で何度か唱えてみた。アゲハに言う前に練習が必要だ。
「あなた、ベルが本気にしているじゃないの……」
母親の言葉に顔を上げると、反対側の席では兄達が何やら盛り上がっていた。
「なかなか可愛いじゃないか」
「ほう、やるなベルナルド……」
彼らは写真サイズの何かを見てにやついている。
見せてみろ、と手を伸ばす父に渡ったそれは、プリントアウトされたアゲハの写真だった。
「ね、言ったでしょう? キモノを着ればもっと素敵になるわ」
先ほど母親に見せた写真をいつの間にかプリントアウトしたらしい。もしかして、僕が着替えている間に?
「ちょ……触るな、僕のだ!」
写真を追いかけながらテーブルを何周かして、再度兄の手に渡ったアゲハの写真をやっと取り返した。
恨みがましく家族を見回すが、ここにいる人間は皆、腹が立つほどにやにやと笑っていた。
「お前はバイオリンばかりで浮いた話のひとつも聞かないから心配していたんだ」
兄弟の中で唯一結婚をしている次兄が上から目線で言った。隣では女たらしの長兄がうんうんと頷いている。
恥ずかしさもあって僕はそのままレストランのバルコニーへ出た。
ささやかに吹く夜風が火照った身体を冷やしてくれる。
僕はひったくった時にできた折り目を伸ばしてアゲハの写真を見つめた。
――ねえ、アゲハ願掛けしてもいい?
もしも僕が日本に戻るまでに、アゲハからのメールが一度も途切れなかったら、バラの花束を持って会いに行く。それから、僕も君が好きだと伝えたいんだ。
それからしばらくして、僕は父に言われた通り花束を抱えてアゲハのアパートに行った。もちろん台詞だって何度となく練習をした。
それを聞いたアゲハは急に泣き出してしまって、何を失敗したのかと思ったけれど、ただ単に寂しかっただけかと思ったらもっと愛おしくなった。
「アゲハ、僕のフルネームはベルナルド・フィオーレというんだ。今はフィオーレロイヤルジャパンの責任者をしている……驚いた――よね?」
さらっと正体をばらしてしまおうと、僕は食事中のアゲハに伝えた。
フィオーレロイヤルと聞いて、アゲハは思案顔で人差し指を唇に当てる。
「あ、思い出した、あたしランチバイキングに行ったことある! ロールケーキがおいしいのよね…………あの、ベル? どうしたの?」
ランチバイキング……僕はそれを聞いて思わず笑い出していた。
顔を伏せて笑う僕を、アゲハは不思議な顔をして覗くように見つめてきた。
「いいよ、じゃあ今度ロールケーキを食べに行こうか?」
そう言うと彼女は嬉しそうな笑顔を僕に向けた。
まったく、あんなに悩んだ自分がバカみたいだ。