第2話 行ってきます
森の中にある小さな洞穴。
そこを新しい棲家として決めたノクターシアが、姿を現した。
陽の光を受けて輝く白銀の髪を揺らしながら、金色の瞳で森を見渡す。
鳥の声。
木々のざわめき。
風が運んでくる土と草の匂い。
ここは、かつてノルトたちが住んでいた王都の近くにある森。
ノクターシアは住み慣れた森を離れ、この場所で見つけた洞穴に荷物を運び込み、新しい棲家とすることにした。
彼女が思い出の詰まった家を離れ、ここへ移り住んだ理由。
それは。
グゥ〜……
「……お腹すいた」
事の始まりは、住み慣れた森で暮らしていた頃に遡る。
その頃のノクターシアは、一人になってしまった寂しさにもかなり慣れ、いつものように食べ物を探して森の中を駆け回っていた。
狙うのは、木の実だけではない。
ルシェラが生きていた頃とは違い、魔獣も獲物にしていた。
長い年月は彼女の体を成長させ、今までの食事では足りなくなっていたのだ。
そこで目をつけたのが、魔獣の肉だった。
ルシェラがあまり好きではなかったため、今まで食べたことはなかったが、ガレスとノルトはよく肉を食べていた。
だから試しに、ガレスがやっていたように調理して食べてみた。
それ以来、ほぼ毎日、魔獣を狩りに出かけている。
ルシェラが嫌いだったため、肉は家には持ち帰らず、家から離れた木の上に備蓄・調理用のスペースを作り、そこで食べるようになった。
そしてその日も、いつものように獲物を狩っていた。
──ドゴォォォォン。
響き渡る爆音。
その音が鳴り響くたびに、森全体が軋むように揺れている。
真っ赤に光り輝く体毛をゆらゆらと逆立たせ、巨木のように太い赤黒い両腕を地面へ叩きつける。
そのたび、地面が割れ、ヒビが入り。
逃げることもできない哀れな木々たちは、無惨に吹き飛ばされ、残骸となる。
その暴れ回っている魔獣こそが。
グレイトアンガーと呼ばれるゴリラの魔獣だった。
“塵すら残さぬ者”
“赤鬼猿”
人間たちの中でそう呼ばれる魔獣が、今日の獲物だった。
ノクターシアは自分に向けて振り下ろされる拳を滑るように避け、手に持った双剣を巧みに操り、出血箇所を増やしていく。
すぐ近くに拳が落ち、地面に大穴ができても平然と。
避けると同時に風のように懐へ入り込み、切り裂いていく。
硬質な筋肉を深く傷つけることはできないが、問題ない。
細かい積み重ねが。
勝利を手繰り寄せる。
だから焦らない。
出血を強い、ただ弱るのを待つ。
狡猾な狼のように。
獲物を見定める。
苛立ったグレイトアンガーは、一際大きな咆哮をあげる。
咆哮一つで森全体を震わせるような衝撃。
今まさに獣の怒りは、頂点に達した。
それを見たノクターシアは後ろへ跳び、距離を取ると、持っていた双剣同士の柄を合わせる。
柄頭にある凹みに合わせるように、もう一方の凸型の突起を差し込み、ガチンとはめ込む。
そして柄を互いに逆方向へ捻るように回すと、片手剣の内部に収められていた柄が飛び出し、双剣は両端に刃のついた長柄武器。
“ツインブレード”
そう呼ばれる武器へと変貌した。
その武器の感触を確かめるように、獲物を見定めながらヒュンヒュンと振り回す。
それを挑発に思ったのか、グレイトアンガーは怒りに満ちた雄叫びと共に地面を蹴る。
体を高速回転させながら迫り、その両腕をノクターシアの頭上から振り下ろした。
一際大きな轟音と共に、地面が激しく上下に揺れ動く。
魔獣の渾身の一撃は。
ノクターシアにとって、大きなチャンスだった。
飛び上がった魔獣の下をすり抜け、体を反転させる。
そして。
揺れがおさまった瞬間。
無防備にさらされているその背中に、ノクターシアは襲いかかった。
背中を斬られ、少量だが赤い鮮血が舞う。
双剣の時なら、これで離脱。
だが、この武器では動きが変わる。
離脱せず、即座に反対側の刃で切り裂いた。
さらなる追撃を嫌がった魔獣は、腕を振り回して振り払おうとする。
しかしノクターシアは体を回転させながらかわし、その勢いを利用して、巨体を支える足を切り裂く。
魔獣は何度も腕を振り回すが、振り払えない。
ノクターシアは離れず、まとわりつき、足を重点的に狙って斬る。
油断なく攻め立てていく。
狩りは順調に終わるはずだった。
(……ここでもう一撃)
彼女がそう思い、足を狙って斬った。
その時だった。
魔獣の足がもつれ、地面に倒れた。
投げ出された足が運悪く、ノクターシアの振った剣へ勢いよく当たる。
そして。
──バキン。
嫌な音が鳴り響く。
「……え」
ツインブレードの刃。
その片方が折れていた。
よろけつつ体勢を整えながら、その刃先を見て、彼女は初めて驚いた顔をしたまま固まってしまった。
「……え?」
先ほどまで一切の隙がなかったノクターシア。
それが今、無防備に動かない。
その隙を、魔獣は見逃さなかった。
グレイトアンガーはノクターシアが呆けている間に立ち上がる。
そして地面を蹴り、一瞬で彼女に近づくと、彼女めがけて横薙ぎに拳を叩きつけた。
その拳を。
ノクターシアは、かろうじて長柄の部分で受け止めた。
その力は凄まじく、長柄部分もへし折れていく感触が伝わる。
だが、それだけでは終わらない。
地面から足が離れ、さらにぐんっと勢いがつく。
「え!? ちょっと待って!?」
思わずそんな声が出てしまうが、それで止まるはずがない。
その拳が離れる頃には。
彼女の体は、空高く舞い上がってしまっていた。
かろうじて湖の中に落ちたが、身体中はボロボロで、しばらくの間、狩りを休むしかなくなってしまった。
そして傷が治っても、肝心の武器がボロボロになっていた。
木の家で、ノクターシアはボロボロになった武器をテーブルの上に並べ、頭を抱える。
弓は使いすぎて折れてしまい、矢もボロボロ。
そしてメインで使っていた剣は、先の戦いで一本しか使えない。
これでは狩りすらまともにできない。
だが、もはや木の実だけでは体は満足できなくなっていた。
「……足りない」
この森で生きられないわけではない。
この空腹にさえ耐えれば、これまで通り暮らしていくこともできる。
だが。
これがいつまでもつか分からない。
武器を直すため。
食べ物を手に入れるため。
そう考えれば、外の世界へ出る理由はいくらでもあった。
けれど、それだけでは踏み出せなかった。
『怖い人ばかりじゃないことくらいは、忘れないで』
不意に、そんな言葉が聞こえた気がした。
かつて彼女が寝ていたベッドに目をやると、一瞬、もういないルシェラがこちらを見て笑いかけた。
『決断するなら、いい機会じゃない?』
そう言われている気がした。
目を擦って、その場所をもう一度よく見ると。
そこにはルシェラの姿は、やっぱりなく。
代わりに、窓辺に一輪の花が置かれていた。
「あれ……」
その花には見覚えがあった。
ルシェラの好きな花。
ノルトとガレスと出会った時、彼らと共に行くことを後押ししてくれた花。
『この花が咲いた花畑でノルトに誘われてね。しばらく悩んでいたんだけど……風が吹いて、この花が舞い上がった時』
その時のルシェラは懐かしそうに。
そして、嬉しそうに笑っていた。
『いってらっしゃいって、背中を押してくれた気がしたの』
ルシェラはこの花を大事そうに持って。
私を見ていた。
『だからシア。あなたも選択を迫られる日が来て、決められないなら、この花を思い出して』
『きっと、いい方向に導いてくれるから』
ノクターシアはしばらくその花を見つめていたが、やがて決心したようにボロボロの服を脱ぎ捨てる。
そして家の奥にしまってあったフード付き外套を着込むと、ボロボロになった武器も腰と背に装備し、荷物をまとめる。
白銀の髪。
金色の瞳。
エルフ族が持つ特徴的な尖った耳と、頭頂部にある狼の耳にも似た感覚器官。
そのすべてを布の奥へと隠し、そして家を出た。
長い間、住んできた家。
ノクターシアは、その家を静かに見つめた。
私たちの家。
今まで私として生きてこられた、そのすべてがここに残っている。
もうこの家は、ただの家ではない。本当の家族みたいなものだった。
だから。
ノクターシアは振り向き、しばらく見つめたあと。
笑いながら手を振る。
「行ってきます」
彼女はそう言って家をあとにし、王都ブラーバの近くにある森へ向かった。
そしてそこで見つけた小さな洞穴を、新しい棲家として決めたのだった。




