第1話 プロローグ
森の奥深く。
危険な魔物が潜み、誰も立ち入らないような場所で。
音も立てず、木々の枝を伝って走る少女の姿があった。
その少女は、白銀の髪と狼の耳を持つエルフ族。
──ヴェルフィア族と呼ばれる、極めて数の少ない種族の一人だった。
彼女は採った木の実を入れた袋を手に、まるで風のように進んでいく。
頭の上にある狼の耳を、移動している間も時折動かしながら、しばらく走り続けていた彼女は、やがて枝の上から飛び出した。
身体を丸め、くるくると宙を回転すると、そのまま地面へ静かに着地する。
立ち上がった彼女の目の前には、大きな木の中に造られた小さな家があった。
長い年月に晒されてきたその木は、かつてのように枝を緑で染めることこそなくなったが、それでも穏やかに立っていた。
彼女は静かに家の中へ入ると、か細く息をするエルフの老女の前に立った。
ルシェラ・ノルバートン。
今年で齢九百七十を数える、一人のエルフ。
かつて名前すら持っていなかった少女を見つけ、傷を治し、そして──ノクターシアという名を与えた人だった。
「……しんどい?」
ノクターシアはいつものように尋ねる。
その言葉を聞いたルシェラは、自分を見つめるノクターシアに弱々しく微笑んだ。
「……少しだけね」
ノクターシアは心配そうにしつつも、持っていた袋を開け、中に入った木の実を数粒取り出す。
そして、ベッド脇のテーブルに置かれた、大きな花が開いたような造形の小皿へその木の実を並べた。
それを見たルシェラは、少し心配そうな顔になる。
「またあそこに……? 一人じゃ危ないって何度も……」
「問題ないよ。私はガレスほど強くないけど、これくらいなら一人でも行ける」
その言葉を聞いたルシェラは、少し考え込む。
「シア……私たちは──」
「何が言いたいかは、わかってる。ルシェラは優しいから」
そう言ったノクターシアの狼の耳と、エルフ特有の長い耳が、少し寂しそうに下へ垂れる。
その様子を見たルシェラは微笑むと、ノクターシアへ軽く手招きした。
そして近づいてきたノクターシアの頭に、そっと手をのせる。
「シア。あんまり自分を貶めちゃダメ。それは悪いことよ」
「ん……みんな違う強さを持ってる……だよね。ごめん」
その言葉を聞いて、ルシェラは嬉しそうに微笑んだ。
「さて……じゃあ、それを少しいただいてから、いつものようにお散歩しましょうか」
そう言ってルシェラはゆっくりと身体を起こす。
そして木の実に手を伸ばし、ゆっくりとした動作で口に含んだ。
まるでその味を確かめるように口の中で転がしたあと、コップに注がれた水とともに喉の奥へ流し込む。
「ふぅ……美味しい。いつもありがとう」
「ううん。これくらいいつでも言って」
その言葉に嬉しそうにルシェラは笑う。
そしてノクターシアの方に手を差し出す。
「じゃあ、お願いね」
「うん」
ノクターシアは優しくルシェラの手を引き、ベッドから起き上がれるように体を支えた。
以前なら、ベッドから出るのにそんな助けは必要なかった。
「ありがとう」
「……うん」
そう答えながら、ノクターシアはルシェラの腕を見る。
細くなった。
元々細かったけど、今は骨と皮だけになったみたいに細く。
昔はよく二人で森の中を散歩した。
私が先を歩いて笑って振り返れば、ルシェラも優しく笑い返してくれた。
私が知らない草木を見つけては、優しく名前を教えてくれた。
ガレス。
ノルト。
彼らがいなくなってから百年余り、ルシェラだけが私の家族だった。
でも最近では、起き上がるだけでも辛そうにしている。
彼女のその姿が、ノルトと最後に会った時に重なった。
ノルトは私とルシェラが会いに行き、無理に体を起こした次の日から目を覚まさなくなった。
「今日はやめた方がいい」
「突然どうしたの?」
その言葉に何も返せなかった。
黙ったままのノクターシアを見て、ルシェラは静かに笑いかける。
「じゃあ、やめようかしら」
以前なら「大丈夫よ」と言っていた。
だから素直に引き下がったことが、逆に怖かった。
ルシェラは再びベッドの中に入る。
そして、自分の隣を軽く叩いた。
「少し座ってくれる?」
「……どうしたの?」
ノクターシアは少し迷いつつも、言われた通り隣へ座った。
窓の外では、木々の葉が風に揺れ、音を鳴らしている。
二人とも、しばらく何も言わなかった。
やがてルシェラが口を開く。
「シア」
「なに?」
「私がいなくなったら、あなたはどうするの?」
ノクターシアの表情が止まった。
「……いなくならない」
「なるわ」
「ならない」
「わかっているでしょう?」
穏やかな声だった。
だから余計に、ノクターシアは何も言えなくなった。
「私は随分長く生きたから。エルフとしても、十分すぎるくらいに」
「まだ生きればいい」
「ふふ。そうできたらいいんだけど」
ルシェラは笑った。
ノクターシアは笑わない。
ただ、膝の上で手を握った。
「そんな顔をしないで」
「してない」
「してるわ」
「……してないもん」
「もう……頑固なところは、ガレス譲りね」
また笑う。
しばらくして、ルシェラは窓の外へ目を向けた。
「あなたは森で一人でも生きられる」
「突然どうしたの?」
「狩りもできる。水も探せる。薬草も知ってる。私がいなくても、それだけなら何百年だって生きていけるかもしれない」
ノクターシアは静かに耳を傾けていた。
「でも、生きていけることと、一人で生き続けることは違う」
「……」
「今は分からなくてもいい」
ルシェラはそう言って、ノクターシアの頭へ手を伸ばした。
白銀の髪を、ゆっくりと撫でる。
「いつか、人のいる場所へ行きなさい」
ノクターシアの身体が、わずかに強張った。
「嫌」
「何も新しい場所に行けとは言わないわ。ノルトたちも住んでいたあの街──」
「……嫌」
「シア……」
「……どうしてそんなこと言うの?」
ノクターシアの身体が震える。
その脳裏によぎるのはかつての幼い自分。
自分と同じように檻の中へ入れられたエルフの子供達。
そして、それを見下ろす人間達。
彼らは笑っていた。
笑って。
エルフの子供や私を。
自らの所有物にしようと。
数字を叫んでいた。
今でも忘れられない。
私が入った檻の横を派手な服を着た男が通り過ぎるたびに。
悲痛な叫びをあげながら引き摺られていく。
あの時のエルフの子供達の最後の顔が。
脳裏に焼きついて離れない。
「怖いの。ルシェラ……」
「知ってるわ」
「なら──」
「じゃあ、ノルトとガレスはどう?」
言葉が止まった。
ルシェラはノクターシアを見る。
「あなたを騙した人間もいた。あなたを檻に入れた人間もいた。でも、助けてくれた人間もいたでしょう?」
「……ノルトとガレスは違う」
「何が違うの?」
「ノルト達は……家族だから」
「ふふっ」
「何?」
「いや。ガレスが聞いたら喜びそうだと思ってね」
ノクターシアはその意味に気づいて顔を逸らした。
「ガレスのこと……苦手だったのに」
「今でも苦手。うるさかったし、野蛮だし」
「でも家族なのね」
「家族では……あるけど。でも嫌い」
「はいはい」
ルシェラは楽しそうに笑った。
「そろそろ許してあげたら?」
「私がどれだけ振り回されたか知ってるよね。絶対許さないんだから」
「もう」
ルシェラはひとしきり笑ったあと、静かに息を吐いた。
「人間を好きになれとは言わないわ」
その声から、少しだけ笑いが消えた。
「でもね、シア」
優しい声だった。
「怖い人ばかりじゃないことくらいは、忘れないで」
ノクターシアは答えなかった。
人間は怖い。
今でも、大勢から見られるだけで身体が強張る。
あの時の目を思い出す。
忘れられるはずがない。
けれどその檻を壊した人間もいた。
何十年も自分を見捨てなかった人間もいた。
「すぐじゃなくていい」
ルシェラが言った。
「十年後でもいい。五十年後でもいい。あなたの時間は、人間よりずっと長いんだから」
「……行かなかったら?」
「それもあなたが決めることよ」
ルシェラは微笑んだ。
「でも、私が死んだからって、あなたまでここで止まる必要はない」
「…………」
「あなたは、あなたの人生を生きなきゃ」
ノクターシアは長いあいだ何も答えなかった。
やがて、小さく呟く。
「……考える」
「うん。それでいい」
ルシェラの手が、もう一度白銀の髪を撫でた。
その手が以前よりずっと弱くなっていることに、ノクターシアは気づいていた。
それでも。
気づかないふりをした。
この時間が、まだずっと続くような気がしていたから。
──それからほどなくして。
ルシェラ・ノルバートンは、九百七十年に及ぶ生涯を終えた。
そしてノクターシアが彼女の言葉に従い、人間の住む場所へ向かうまでには。
さらに八十年の時間が必要だった。
ここまで読んでいただきありがとうございます( ^∀^)
よかったらブクマや感想、レビューなどいただけると創作意欲につながりますので、よろしくお願いいたします
٩( 'ω' )و
【ちょっとした設定】
この世界に存在するエルフは全部で4種類。
人間と同じように色々な髪と瞳をしたエルフ族。
彼らの大体は森に住んでいるが、その一部は人間と共に住んでいる。
黒髪に赤い瞳を持ったダークエルフ族。
彼らはエルフ族の中でも好戦的で、森ではなくドワーフたちのように岩の多い地域に住んでいる。
エルフ種としてはこの二種属がほとんどの数を占めていて。
黄金の輝きを誇る髪色と銀の瞳を持つハイエルフ族。
エルフ種の中でも最も魔力を持っており、自分たちを最も高潔な種族と思っている。
そしてエルフたちの中でも希少な種族。
白銀の髪の上に狼のような耳がつき、金色に輝く瞳を持つヴェルフィア族。




