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第八章 消えゆく名前

玲奈が退職した日。

玲奈は、この後3年間のマイルストーンを書き出した。


1年目:不妊治療に専念する。

2年目:妊娠、そして出産。

3年目:子育てをしながら、1歳になる頃を目安に会社へ復帰する。


学校も。

仕事も。

玲奈はいつも目標を立て、そのために努力してきた。

だから今回も大丈夫。

そう信じていた。

――努力すれば、夢は叶う。

その夢のために、病院へ通い、薬を飲み、注射を打つ。

診察日を中心に生活が回る。

治療は決して楽ではなかった。

それでも辛くはなかった。

3年後には会社へ戻り、子どもを抱いている。

その未来を疑わなかったからだ。



1年目。

朝倉から時折メッセージが届いた。

『元気?』

『焦らなくていいからね。』

『部のみんなも待ってるよ。』

玲奈は何度も返信を書いては消した。

『順調です。』

そう打って、また消す。

朝倉には嘘が通用しない気がした。

結局、

『ありがとうございます。』

その一言だけ送る。

今はまだ報告できない。ちゃんと結果が出てから話そう。

そう思っていた。



2年目。

本来なら、もうお腹に赤ちゃんがいるはずだった。

けれど、妊娠しない。

人生で初めて、自分が立てた計画が狂い始めた。

予定を組み直す。

治療法を変える。

病院を調べる。

「まだ間に合う。」

そう言い聞かせながら、玲奈は誰よりも急いで生きていた。


この頃になると、朝倉からは電話がかかってくるようになった。

玲奈は何度もスマホを手に取るが、いつも応答ボタンを押せなかった。

順調じゃないことが、声を聞けばきっと伝わってしまう。

心配をかけたくない。

ちゃんと良い報告ができるようになってから話そう。

そう思っていた。



そして3年目。

診察室で担当医が穏やかに微笑んだ。

「おめでとうございます。」

玲奈は耳を疑った。

やっと、やっと、やっと妊娠した。

診察室を出ると、典之が待っていた。

検査結果を伝えた瞬間、二人は抱き合って泣いた。

嬉しくて、信じられなくて、何度も「ありがとう」と言い合った。


――出産までを考えると、約束していた3年は過ぎてしまう。

でも、大丈夫。

夢は、ちゃんと叶った。

玲奈はそう信じていた。


その日の夜だった。

夕食を終えたあと、玲奈は静かにクローゼットを開けた。

奥には、仕事で着ていたスーツが何着も掛かっている。

どれも、会社を辞めた日から時間が止まったままだった。

玲奈は名刺入れを開き、一枚の名刺を取り出す。

そこには、

『広報部長 白石玲奈』

と印字されていた。

玲奈は指先で、そっと名前をなぞる。

「……白石玲奈。」

その名前を口にする。

最近、その名前で呼ばれることがなくなった。

病院では番号。

近所では「椎名さん」。

スーパーでは誰にも名前を呼ばれない。

会社を辞めてから、

"白石玲奈"という人間が、少しずつ消えていく気がしていた。


「玲奈さん、洗い物終わったよ」

典之がリビングから顔をのぞかせる。

「ありがとう」

「何見てたの?」

「昔の名刺。」

典之は玲奈の隣へ座った。

「そっか。」

玲奈は少し笑う。

「会社辞めて、もうすぐ3年になるんだなって。」

典之は名刺を見つめ、それから玲奈の顔を見た。

「玲奈さん。」

「ん?」

「今は言うことじゃないかもしれないけどさ。」

少し照れくさそうに笑う。

「子どもが生まれて、玲奈さんの体が落ち着いたら、すぐ仕事に戻っていいんだからね。」

「僕が育休を取ればいいし、何だってできる。」

玲奈は驚いたように典之を見つめた。

「今の玲奈さんももちろん大好き。」

「でもね。」

典之は照れくさそうに笑う。

「仕事をしている玲奈さんが、一番かっこよくて、一番好きなんだ。」

玲奈は思わず笑った。

その言葉は、誰よりも自分のことを分かってくれている人だからこそ言えた言葉だった。

「玲奈さんもそうでしょ?」

その言葉に、玲奈は頷いた。

――私も仕事をしているときの"白石玲奈"という人間が一番好きだ。

「この子もきっとそう思うよ。」

典之は玲奈のお腹にそっと手を当てた。

「働いてるママってかっこいいなって。」

玲奈は優しくお腹を撫でる。

「そう思ってくれたら、嬉しいね。」

その未来を、二人は疑っていなかった。



数週間後。

妊娠を告げられた同じ診察室で、担当医が静かに目を伏せた。

「……残念ですが。」

その一言で、世界から音が消えた。

担当医は画像を見せながら説明を続ける。

手術のこと、今後の治療のこと、次の妊娠に向けた話。

言葉は耳に入っているはずなのに、何一つ意味として頭に届かなかった。

診察室を出るまで、玲奈は一言も話さなかった。


帰りの車の中も、家へ着いてからも、典之が何度も名前を呼んでくれていた気がする。

でも、何も返せなかった。

部屋へ入り、静かにベッドへ腰を下ろす。

両手でお腹を抱えた。

そこには、もう命はいなかった。

「……まだ、努力が足りなかったのかな。」

誰に向けた言葉でもない。

その小さな独り言だけが、静かな部屋に落ちた。

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