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第九章 失われた居場所

流産から一か月が経った。

玲奈の心は、ゆっくりと色を失っていった。

外へ出ることはほとんどなくなり、一日の大半を家の中で過ごすようになった。

典之は心配のあまり、何度も在宅勤務を申請した。

しかし、パソコンを開いても隣の寝室ばかりが気になり、仕事はまったく手につかなかった。


どうしても外せない会議のために出社した、ある日の夜。

急いで帰宅した典之が玄関のドアを開けると、迎えたのは静まり返った空気だった。

「……ただいま」

呼びかけても返事はない。

嫌な予感が胸をよぎり、慌ててリビングの照明をつける。

パッと明るくなった部屋の隅で、玲奈はソファに膝を抱え、小さく身体を丸めていた。

「……びっくりした。玲奈さん、電気もつけないでどうしたの?」

玲奈はぴくりとも動かない。

生気というものが、すっかり抜け落ちてしまったようだった。

「あ、そうそう。帰りに駅前で見つけたんだ。玲奈さんが好きだったワイナリーのワイン」

凍りついた空気を少しでも変えたくて、典之は努めて明るく袋からボトルを取り出した。

「お酒は控えてるって、何度も言ってるでしょ!」

突然、玲奈が怒鳴った。

「あ……ごめん、ごめん。でも、身体も落ち着いてきたし、たまには息抜きにいいかなって……」

典之の弁明を遮るように、玲奈は典之を睨んだ。

その目は、典之の知る玲奈のものではなかった。


最近の玲奈は、世界のすべてに怒っているようだった。

洗濯物のわずかな畳み方の違い。

テレビの音量。

玄関に並べたスニーカーの向き。

以前なら、

「典之くんは本当に不器用だね」

と笑って直してくれたことが、今ではすべて癇に障る。

そして、その怒りは決まって典之へ向けられた。


また、別の日。

「なんであなたは何もしないの?」

夕食の片付けをしていた典之の背中に、玲奈の乾いた声が突き刺さる。

「何もしてないわけじゃ……。玲奈さんが少しでも休めるようにと思って……」

「そうやって、いつも安全なところから私を見てる!」

「そんなこと…」

「 私ばっかり苦しい。私ばっかり…私ばっかり…どんどん醜くなって…!」

バシッ、と乾いた音がリビングに響いた。

典之の頬にじわりと熱い痛みが走り、叩かれた姿勢のまま硬直した。

玲奈自身も、自分の放った一撃に驚き、ガタガタと震えていた。

「……ごめん」

掠れた声を絞り出し、玲奈は両手で顔を覆いながら寝室へと駆け込み、内側から鍵をかけた。

典之は、赤く腫れ始めた頬を押さえたまま、しばらく動けなかった。

不思議と怒りは湧かなかった。

ただ、あの誰よりも堂々としていて、誰よりも凛としていた白石玲奈が、自分に暴力を振るうほどに追い詰められている。

その事実が辛かった。



数週間後、定期検診の帰り道。

典之は覚悟を決めて口を開いた。

「玲奈さん」

「……なに?」

「子どもができなくたって、玲奈さんがいてくれたら、それでいい。」

典之はゆっくりと言葉を続けた。

「僕は、それだけで幸せなんだ。」

玲奈は立ち止まったまま動かない。

数秒の沈黙が流れる。

そして――

「あ……」

小さく漏れた声は、やがて叫びへ変わった。

「あ、あああぁぁぁ!」

言葉にならない叫びだった。

玲奈は両手で髪を掻きむしり、声を上げて泣き狂った。

「子どもがいなくていいなら、私のこれまでの人生は何だったの!? 何のために仕事を辞めたの!? 私は、私は、何のためにここにいるのよ!」


典之は、半ば放心状態の玲奈を助手席に乗せ、そのまま車を彼女の実家へ向けた。

玲奈の父親には、事前にすべてを打ち明けていた。

常に冷静沈着だった父親が、変わり果てた娘の姿を見た瞬間、その目から涙をあふれさせた。

「お父さん……!」

ひとしきり泣き腫らし、すべての事情を聞き終えた父親は、深く長い溜息のあと、静かに言った。

「一度、心のお医者さんへ行こう」

「私は、おかしくなんてない。」

玲奈はそう言ったものの、その声にはかつての自信はなかった。

だが、父親は優しく、しかし拒絶を許さない力強さで娘の肩に手を置いた。

「おかしいんじゃない、玲奈。お前は、努力しすぎて、疲れすぎているだけだ。」



父親の紹介で訪れた精神科の診察室は、驚くほど静かだった。

初老の医師は、責めるようなトーンを一切排除した穏やかな声で、質問を重ねていく。

「夜は、眠れていますか?」

「食事は、美味しいと感じられますか?」

「理由もなく、涙が止まらなくなることは?」

「何にも興味が持てなくなっていませんか?」

玲奈は一つひとつ小さく頷いていった。

診察の最後、医師は処方箋を書き始めた。

慌てて玲奈は身を乗り出す。

「先生。」

「はい。」

「私、妊娠を希望しています。」

医師の顔を見つめながら、彼女は懇願するように言葉を繋いだ。

「もし薬を飲んだら……妊娠できなくなるんじゃないですか。」

「……椎名さん、そのお気持ちは、痛いほど分かります。」

医師は玲奈の方へ身体を向き直した。

「ですが、新しいお命を迎えるためにも、まずは、あなた自身が元気を取り戻すことが何よりも大切なのです。」

「…嫌なんです!」

玲奈は、医師の言葉を最後まで聞かなかった。

椅子を跳ねのけるように立ち上がり、典之の手を振り払って診察室を飛び出した。


「玲奈さん!」

廊下で追いついた典之に、玲奈は叫んだ。

「もう病院なんて来ない。」

「あそこへ行ったら……私は、本当に母親になれなくなる。」

「『母親になれない人』って認めることになる。」

「そんなの、嫌……。」

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