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第十章 最後の願い

その日は、朝から雨が降っていた。

窓ガラスを伝う雨粒をぼんやりと眺めながら、玲奈はゆっくりと寝室を出た。

リビングへ入ると、キッチンに立っていた典之が振り返る。

目が合った瞬間、ほっとしたように微笑んだ。

「おはよう、玲奈さん」

その笑顔が、今の玲奈にはまぶしすぎた。

「今日はお粥を作ってみたんだ。少しでも食べられそうだったら、一緒に食べよう」

努めて明るく話しかける典之の声が、リビングに響く。

――どうして。

玲奈は立ち尽くした。

――どうして、この人はそんな声が出せるの。私はこんなにも苦しいのに。

胸の奥から、黒い感情がゆっくりと湧き上がる。

そのとき、視線がリビングの床へ落ちた。

割れた写真立て。

脚が折れた椅子。

散らばったクッション。

昨日、暴れた跡だった。

玲奈はぼんやりと思い出す。

典之が止めようとしていたこと。

泣きながら何かを叫んでいたこと。

そのあとの記憶は、ほとんど残っていない。


――なんで。なんで、こんなふうになってしまったんだろう。

仕事も。

結婚も。

家庭も。

子どもも。

全部、欲しかった。

欲張りだったわけじゃない。

努力すれば、全部手に入ると信じていただけだった。

それなのに。

今の私には、何も残っていない。


その時だった。

ピンポーン。

静かなリビングに、インターホンの音が鳴り響いた。

典之は「誰だろう」と小さくつぶやき、インターホンへ向かう。

モニターを見た瞬間、その表情が固まった。

「……朝倉さん?」

モニターを見た典之は、思わず息を呑んだ。

そこには玲奈の元上司・朝倉真弓が映っていた。

『ごめんね。白石に何度電話してもつながらなくて。心配になって来ちゃった。』

インターホン越しの声は、いつもと変わらない穏やかなものだった。

その声を聞いた瞬間だった。

「……朝倉さん?」

玲奈の表情が強張る。

血の気が引いていくのが、典之にも分かった。

「玲奈さん、大丈夫。朝倉さんは心配して――」

「帰ってもらって!」

玲奈が悲鳴のような声を上げた。

「お願いだから帰ってもらって!」

その叫びに、典之は思わず振り返る。

玲奈は震えながら耳を塞ぎ、首を何度も横に振っていた。

「玲奈さん……」

「嫌!」

「こんな姿、見られたくない!」

呼吸が浅くなり、肩が激しく上下している。

典之は慌ててインターホンへ向き直った。

「朝倉さん、申し訳ありません。玲奈さん、今日は少し体調が悪くて……本当にすみません。」

しばらく沈黙が続く。

やがて、朝倉が静かに答えた。

『……そう。分かった。突然来てごめんね。白石に、ゆっくり休んでって伝えて。』

「ありがとうございます。」

通話が切れる。

リビングには再び静けさが戻った。

典之が振り返ると、玲奈はじっと床を見つめていた。

「……帰った?」

「うん。帰ったよ。」

玲奈は小さくうなずく。

その表情に安堵はなかった。

ゆっくりと顔を上げた玲奈は、典之をまっすぐ見つめた。

「……なんで?」

「え?」

「典之くんが呼んだの?」

典之は息を止めた。

「違うよ。」

「嘘。」

玲奈は首を横に振る。

「私、おかしくなったから見せたかったんでしょ。」

「そんなことない。」

「会社のみんなに話した?」

「話してないよ。」

「かわいそうって思われてるんでしょ。」

「違う。」

「みんな、笑ってる。」

典之は一歩近づく。

「玲奈さん。」

「私、知ってるんだから。」

玲奈の声は静かだった。

「典之くん、私に隠れて実家へ行ったでしょう。」

典之は言葉を失う。

「病院にも連れて行った。」

「みんなで私を病人にしようとしてる。」

「違う!」

思わず声が大きくなる。

「そんなこと絶対にない!」

玲奈の瞳から涙がこぼれた。

「ある!」

叫んだ瞬間だった。

テーブルの上に置かれていたマグカップが床へ飛んだ。

ガシャン、と割れる音が部屋に響く。

「玲奈さん!」

「みんな私を笑いものにして!」

花瓶が倒れる。

リモコンが壁へ投げつけられる。

「ああああぁぁぁ!」

玲奈は泣きながら、手当たり次第に物を投げ始めた。

典之は止めようとして近づく。

しかし玲奈は、その手を振り払った。




すでに雨は止んだようで、窓から夕日が照らしていた。

玲奈は疲れ切った身体で荒れ果てた我が家を呆然と眺めていた。

「玲奈さん?」

典之は涙を浮かべていた 。

「典之くん、私、もうだめかも。」

「ねぇ。」

「もう、私、白石玲奈じゃない。」

「こんなの私じゃない。」

玲奈は典之の手を取り、目を真っ直ぐに見てこう伝えた。

「お願い。」

玲奈は震える声で言った。

「私を殺して。」

「昔の白石玲奈を守って。」

「そんなことできない。」

典之は玲奈の手を強く握り返した。

「もう一回だけ病院へ行こう。」

「違う病院でもいい。」

「先生を変えてもいい。」

「僕も会社も辞めるから。」

「だから、生きて。」

典之は懇願するように玲奈に言った。

「典之くん?」

乾いた玲奈の声。

「白石玲奈を守ってよ。」

「仕事をしている玲奈さんが、一番かっこよくて、一番好きなんだって、そう言ってたじゃん?」

「なら守ってよ!」

「典之くん。」

「お願い。」

「もう、このまま生きたくない。」

「こんなのは白石玲奈じゃない。」

玲奈はゆっくりと顔を上げた。

涙で濡れた瞳が、まっすぐ典之を見つめる。

「私を愛しているなら――」

典之は何も言えなかった。

代わりに、壊れてしまいそうなほど、強く抱きしめた。

けれど玲奈は、その腕に応えようとはしなかった。




西日が少しずつ部屋を離れていく。

時計の針だけが静かに時を刻んでいた。

やがて部屋は夕闇に沈み、いつしか夜になっていた。

部屋の中には、もう何の音もしなかった。

典之は震える手でスマホを握る。

何度も息を吸う。

それでも震えは止まらない。

ようやく発信ボタンを押した。

「……110番です。事件ですか、事故ですか。」

典之は目を閉じた。

一筋の涙が頬を伝う。

「……妻を、殺しました。」

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