第十一章 戻らない名前
「お忙しい中、お時間をいただきありがとうございます。」
パレスHD本社。
重厚な扉の向こうにある役員室で、啓介はICレコーダーの録音ボタンを押した。
向かいに座るのは、玲奈の直属の上司だった朝倉真弓。
事件から数か月。
それでも彼女の話し方は冷静で、感情を抑えているように見えた。
玲奈の仕事ぶり。
典之との結婚。
不妊治療を始めるために退職したこと。
朝倉は事実だけを淡々と語る。
ふと、言葉が止まった。
「白石なら……戻って来ると思ってたの。」
啓介は一瞬、誰のことか分からなかった。
「白石……ああ、玲奈さんのことですね。」
朝倉は小さく微笑む。
「私にとっては、今でも白石なの。」
そう言って机の引き出しを開け、一枚のカードケースを取り出した。
中から現れた社員証。
そこには、
『白石玲奈』
とはっきり印字されていた。
啓介は思わず見入る。
「会社では、ずっと白石さんだったんですね。」
朝倉は頷く。
「結婚しても、社内名は旧姓のままだったの。」
指先で社員証をそっとなぞる。
「この社員証ね。退職の日に返却されたものなの。」
静かな沈黙が流れた。
「あの子は戻ってくると思ってた。」
朝倉の視線は社員証から離れない。
「治療が落ち着いたら、『朝倉さん、ただいま帰りました』って笑って戻ってくると思ってたの。」
少しだけ笑う。
しかし、その笑顔はすぐに消えた。
「だから……捨てられなかった。」
啓介は胸が締めつけられた。
会社を辞めたことで玲奈が失ったのは、職場ではない。
"白石玲奈"という人生そのものだった。
そして会社もまた、その白石玲奈を失っていた。
しばらく沈黙が続いたあと、朝倉がぽつりと口を開いた。
「私ね、結婚していたことがあるの。」
啓介は顔を上げる。
「でも…今はバツイチ。」
窓の外を見つめながら続けた。
「そのとき、子どもを流産したの。」
部屋の空気が止まる。
「それ以来、子どもには恵まれなかった。」
朝倉は自嘲するように笑う。
「だから仕事に逃げた……というより、仕事に生きるしかなかった。」
社員証を見つめながら続ける。
「本当はね。」
「白石みたいに、仕事も。」
「結婚も。」
「家庭も。」
「子どもも。」
「全部、手に入れてほしかった。」
少しだけ目を伏せる。
「でも、そういうものって、努力だけじゃどうにもならないこともあるのよね。」
啓介はレコーダーを見つめたまま言葉を失う。
朝倉は苦笑した。
「さすが記者さんね。」
「こんな話までさせてしまうなんて。」
啓介は首を横に振る。
「玲奈さんは……そのことをご存じだったんですか。」
朝倉は静かに首を振った。
「いいえ。」
「話さなかった。」
「もっと早く、自分のことを話していれば。」
社員証を握る手に力が入る。
「白石は、違う未来を選べたのかもしれない。」
長い沈黙。
そして、朝倉はようやくその言葉を口にした。
「それだけが、私の後悔。」




