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第七章 届かない言葉

啓介による典之への取材は行き詰まっていた。

昔のよしみで面会はできるものの、典之は事件について一切口を開こうとしない。

それどころか、話の端々から伝わってくるのは玲奈への深い愛情だった。

「玲奈さんは、本当に綺麗な字を書くんだよ」

「玲奈さんは、僕の作る炒飯が大好きだったんだよ」

典之から玲奈の話が出るたびに啓介の胸の奥で、じわじわと疑問が膨らんでいく。

――本当に典之は玲奈を殺したのだろうか。


取材の停滞を破るため、啓介は「椎名 玲奈」という人物を改めて調べ直した。

椎名 玲奈――旧姓 白石 玲奈。

享年42歳。

父親は大手商社の役員、母親は元華族の血を引く名家の令嬢。

二人の兄と一人の妹に囲まれた絵に描いたような幸福な家庭の輝かしい長女。

名門女子校から一流大学を経て、パレスHDへ。

パレスHDでは順調にキャリアを重ね、31歳で広報部課長、34歳で次長、37歳で部長へと抜擢された。

彼女の経歴は、非の打ちどころがないどころか、他者を寄せ付けないほどの速度で埋め尽くされていた。


だが、その足跡は3年前、39歳の冬にぷつりと途切れている。

理由は「母親の介護」。

確かにその前年、彼女の母親は脳梗塞の後遺症で下半身の自由を失っていた。

しかし現在は歩行器で歩けるまでに回復している。

もちろん、家族を支えるために退職する人もいる。

だが、取材を重ねて知った玲奈の性格や仕事への姿勢を考えると、

キャリアを手放すほどの理由だったとはどうしても思えなかった。


さらに実家近辺で聞き込みを進めると、もう一つ奇妙な事実が分かった。

「玲奈さん? ああ、白石さんちの上の娘さんね。でも、ここ数年は全然見かけなかったわよ。」

そんな証言ばかりだった。

反対に、よく名前が挙がるのは典之だった。

「代わりにね、よく来てたのはお婿さんのほう。典之さん。」

「この古い住宅街でさ、誰にでも『こんにちは!』って大きな声で挨拶してね。町内会のドブ掃除まで手伝ってくれたんだから。みんな、いいお婿さんを貰ったねぇって噂してたよ」

母親の介護を理由に退職した娘は実家にほとんど姿を見せず、婿のほうが頻繁に通っていた。

あまりにも不自然な構図だった。

啓介はこの違和感の先に、事件の真相があると感じていた。



拘置所の待合室。

典之の面会のための必要事項を書いて待っていると、啓介のスマホに着信が入った。

つぐみからだった。

画面を見た瞬間、胸が重くなる。

最近、つぐみからの連絡は嫌な予感しかしなかった。

「SNSで誰それが幸せ自慢している。」

「お義母さんがこんなことを言った。」

「私のことを遠回しに責めてる。」

そんな話ばかりだった。

もちろん、つぐみが苦しんでいることは分かっている。

けれど、啓介にはもう、かけるべき言葉のストックがなかった。

「そんなことないよ」は火に油を注ぎ、「気にしなきゃいい」は彼女の絶望を軽んじる。

着信が止むと、すぐにメッセージが届く。

啓介は画面を見ることもなく、スマホの電源を切った。

――今日は帰りたくない。

家へ帰れば、また何かを間違える気がした。

何を言っても傷つける。

何も言わなくても傷つける。

そんな毎日に、少し疲れていた。


不妊治療を始めてから、つぐみは変わった。

いや、変わったというより、追い詰められていった。

ホルモン剤の影響で、PMSのようなイライラや情緒不安定が起こることもあるらしい。

けれど、つぐみの場合は薬だけが原因ではないように思えた。

精神的な負担のほうが、ずっと大きいように見えた。


下の弟の妻が妊娠したと実家から連絡があった日もそうだった。

母から「妊娠は早いほうがいいからね」と言われたことを、つぐみは必要以上に気にしていた。

「結婚して六年も経つのに子どもができない私は、駄目な嫁なんだろうね。」

「そんなこと、誰も思ってない。母さんだってただ――」

「じゃあどう思ってるの!?」

ヒステリックな悲鳴がリビングに響いた。

啓介の言葉はもう届かなかった。


もともと、つぐみは人一倍感受性が強いタイプだった。

出会った頃の彼女は、報道カメラマンをしていた。

事件や事故を追うたびに、人の悲しみや絶望を自分のことのように抱え込んでしまう。

だから報道の世界を離れ、動物専門のカメラマンになった。

動物を撮っているときのつぐみは、本当に楽しそうだった。

あの笑顔が好きだった。

守りたいと思った。

だから結婚した。

それなのに今は、その笑顔がどこにもなかった。


「啓介は、事実を事実として受け止めて、感情と切り離せるからすごいよね。」

以前、つぐみにそう言われたことがある。

そんなことはない。

自分だって苦しい。

ただそうしなれれば、また取材現場に向かうことができなくなるから、胸の奥に鍵をかけているだけ。



職員に呼ばれ、啓介は面会室へ入った。

典之はいつものように穏やかに笑っていた。

「けーちゃん。」

啓介が顔を上げる。

「なんかあった?」

「え?」

「今日はいつもより疲れた顔してる。」

啓介は思わず苦笑した。

子どもの頃からそうだった。

典之は、勉強ができるわけでも、機転が利くわけでもない。

一見すれば、ただの能天気な男だ。

けれど、人の表情や空気の変化には誰よりも敏感だった。

「……典之には隠せないな。」

そう言うと、肩の力が抜けた。

取材のはずだった。

事件の話を聞きに来たはずだった。

なのに最初に口を開いたのは、自分だった。

「……最近さ。」

啓介がぽつりと口を開く。l

「家に帰るのが少し怖い。」

典之は黙ったまま聞いている。

「俺たち、不妊治療を始めたんだよ。」

「そしたら、つぐみ…あ、つぐみって俺の奥さんなんだけど、ちょっと変わっちゃってさ。」

啓介は視線を落とした。

「SNSを見れば、『あいつは幸せ自慢してる』って怒る。」

「弟のところに子どもができたって話を聞けば、『私は駄目な嫁なんだ』って泣く。」

「母さんの『妊娠は早いほうがいい』って何気ない一言も、自分への嫌味だって受け取る。」

苦笑しようとした。

でも、笑えなかった。

「俺には、もう何が正解なのか分からない。」

「励ましても駄目。」

「黙ってても駄目。」

「『子どもができなくても、俺はつぐみと二人で生きていければ幸せだよ』なんて言った日には、『簡単に言わないで』って大雨の中に傘も持たずに飛び出していったんだぜ?」

啓介は両手を組み、深く息を吐いた。

「俺……どうしたらいいんだよ、典之」

初めてだった。

事件の相談でもない。

取材の相談でもない。

ただ、自分の弱音を誰かに吐いたのは。

「つぐみのことは好きなんだ。」

「守りたいとも思ってる。」

「でも最近は、家に帰るたびに『今日は何を言えば傷つけずに済むんだろう』って、そればっかり考えてる。」

声が少し震えた。

「正直……もう疲れた。」

長い沈黙が流れた。

典之は何も急いで答えようとはしなかった。

ただ、昔と変わらない優しい目で啓介を見つめていた。

「……僕もね」

典之の唇が、ゆっくりと動いた。

「全く同じこと、言ったんだよ」

「……え?」

啓介は思わず顔を上げた。

典之は少しだけ寂しそうに笑った。

「僕も玲奈さんに言った。」

「子どもができなくても、二人で幸せに生きていこうって。」

典之はゆっくりと続ける。

「玲奈さんさ…子どものために、あんなに好きだった仕事まで辞めたんだ。」

「頑張って、努力して、部長まで上り詰めたのに。」

「病院へ通って、辛い治療も我慢して。」

「いい病院があるって聞いて、東北まで治療を受けに行ったんだ。」

「本当に必死だった。」

典之は遠くを見るような目をした。

「だから僕は思ったんだ。」

「もう十分頑張った。」

「子どもができなくても、玲奈さんがいてくれたら、それでいい。」

「僕は幸せだからって。」

少し笑う。

でも、その笑顔はどこか苦しかった。

「……あの時は、それが玲奈さんを救う言葉だと思ってた。」

長い沈黙が流れる。

「でも違った。」

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