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第六章 消えない焦り

ワイングラスは、キッチンの戸棚の奥で、すっかり埃を被っている。

妊活を始めてから、つぐみはアルコールを断った。

かつては一日の終わりに啓介とグラスを傾け、仕事の愚痴を笑い飛ばすのが最高のストレス発散だった。

けれど今の夜にあるのは、サプリメントを飲み込む味気ない音だけだ。

「順調なら、半年以内にできる人がほとんどだから」

ネットの不妊コミュニティで見かけたその言葉が、頭の裏側にこびりついて離れない。


不妊治療を始めてから、一番億劫になったのはSNSだった。

以前は友人の結婚や出産には素直に「おめでとう」のハートマークを押せていた。

なのに今は違う。

投稿を見るたびに、胸の奥がざわつく。


ある日、こんな投稿が流れてきた。

『一歳半になって初めて熱を出しました。心配で眠れない……』

添えられた写真は、冷えピタを貼ってすやすやと眠る幼児の顔。

「……自慢かよ。」

思わずスマホに向かってつぶやく。

「え?どうしたの?」

隣でノートPCを開き、原稿をチェックしていた啓介が、不思議そうに視線を向けてくる。

「1歳半まで熱を出さなかったって投稿。心配してるふりして、結局はうちの子は丈夫で健康です、っていうマウンティングじゃん」

「え……?」

啓介のタイピングする手が止まる。

「どういうこと? 普通に子どもが熱出して焦ってるだけじゃないの?」

「1歳半だよ? 普通はもっと早く発疹とか出すでしょ。ほら、見てよこの『心配』って言葉。要するに、今まで何もトラブルがなくて幸せでしたっていうアピールを裏返してるだけ」

一気にまくし立てるつぐみの熱量に押されたのか、啓介は少し引いたような目を向けた。

「それ、考えすぎじゃない?」

「は?」

「なんていうかつぐみの思い込みっていうか…。」

「そっか。」

つぐみはスマホを乱暴に投げた。

「男の人には分からないか。」

「え?」

「こういう絶妙な嫌味って。」

啓介は何か言い返そうとしたが、言葉が見つからなかった。

「もういい。お風呂入ってくる。」

啓介の言葉を遮り、つぐみはリビングを後にした。

背後で、啓介が小さくため息をつく気配がした。



数日後。

つぐみに義母から電話がかかってきた。

義母はおしゃべり好きで、月に一、二回ほど電話をくれる。

とはいえ、いつも五分ほどで終わる。

「男ばっかり三人育てたから、話し相手がいなくてね。」

そう笑う義母を、つぐみは嫌いではなかった。

「もしもし、つぐみちゃん。」

今日はどこか声が弾んでいた。

「あ、お義母さん、こんにちは。なんだか嬉しそうな声ですね。何か良いことでもあったんですか?」

「分かる? そうなのよ! 実はね、陽介のところに赤ちゃんができたの!」

陽介は啓介の下の弟だ。

つい数ヶ月前、結婚式でつぐみがカメラを向けたばかりの二人だった。

「あ……っ、本当ですか! おめでとうございます!」

トーンを二つほど上げた声を絞り出す。喉の奥が引きさかれるようだった。

「もう嬉しくて、真っ先につぐみちゃんに電話しちゃった。結婚したばかりだから、私たちもびっくりしちゃって!」

「そうですね……確かに早いですね…」

「こういうことは早いほうがいいからね。浩介のところも結婚して2年経たないうちに生まれたし。」

「……そう、ですね」

「で、今度お祝いを買いに行くんだけど、つぐみちゃん、見るの付き合ってくれない? センス良いから頼りにしちゃって」

スマホを握るつぐみの指先から、すうっと血の気が引いていく。

――義母に悪気はない。

そんなことは分かっている。

それでも。

――結婚して6年経っても子どもができない私は、駄目な嫁なんだろうな。

暗に「あなたはまだなの?」と責められているわけではない。

ただ、猛烈な孤独感だけが流れ込んできた。

「……すみません、お義母さん。今、ちょっと仕事が立て込んでいて……」

「あら、そうなの? カメラマンさんは忙しいわねえ。いいのよ、無理しないでね!」

電話が切れたあと、つぐみは静まり返ったリビングで、しばらく立ち尽くしていた。



妊娠判定日の朝は、世界が灰色に塗りつぶされたような大雨だった。

フロントガラスを激しく叩く雨粒が、ワイパーの速度を上げても追いつかない。

病院から戻り、助手席のドアを閉めたつぐみは、シートに深く身体を沈めた。

服の裾についた雨の雫が、じわりとジーンズに染みていく。

「……今回も駄目だった。」

啓介はハンドルを握ったまま、前方を見つめている。

ワイパーがせわしなく左右に振れる音と、ルーフを叩く雨音だけが、二人の間の沈黙を埋めていた。

「つぐみ。」

「何?」

「あのさ……無理してない?」

つぐみは答えず、ただ窓の外の雨を見つめている。

「俺は、つぐみが心配なんだ。」

少し間を置いて続ける。

「子どもができなくても、俺はつぐみと二人で生きていければ、それでも――」

「簡単に言わないで」

思わず声が響いた。

「簡単に言わないでよ!」

その瞬間、つぐみは激しく助手席のドアを押し開けた。

容赦ない雨の壁が、車内に流れ込んでくる。

つぐみは傘も持たず、土砂降りのアスファルトへと駆け出していった。

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