第五章 信じた未来
「ねえ、子ども、ほしい。」
――あの頃の私は、信じて疑わなかった。
仕事も。
キャリアも。
家庭も。
子どもも。
努力すれば、全部手に入れられると。
手に入れられない未来なんて、一度も想像したことはなかった。
「努力すれば夢は叶う。」
それが、玲奈の両親の教育方針だった。
幼い頃からそう教えられ、玲奈自身も努力で道を切り開いてきた。
名門女子校へ進み、一流大学へ進学し、希望していたパレスHDへ入社した。
就職先にパレスHDを選んだのも、会社説明会で出会った女性社員の一言が心に残っていたからだ。
「うちの会社は、努力した人間が報われる会社だから。女も男も関係ない。」
その言葉と会社の経営理念に惹かれ、玲奈は入社を決めた。
まさか、その女性が直属の上司になるとは思ってもいなかった。
朝倉真弓。
広報一筋でキャリアを積み、後に数少ない女性役員となる人物だった。
玲奈が入社した当時は、広報部の課長を務めていた。
女性の上司だったこともあり、玲奈は働きやすさを感じていた。
もちろん、女性だからという理由で軽く見られる場面がなかったわけではない。
それでも朝倉の存在は大きかった。
彼女が道を切り開いてきたからこそ、玲奈たちの世代は以前よりずっと働きやすくなっていた。
その環境にも恵まれ、玲奈は31歳で広報部課長へ昇進した。
仕事は楽しかった。
毎日が充実していた。
だが、その一方で結婚だけは遠ざかっていた。
憧れの朝倉も、恋愛や結婚の話をすることは一度もない。
完璧に見える人にも、手に入らないものがあるのかもしれない。
玲奈はそう思うことがあった。
もっとも、自分も人のことは言えなかった。
学生時代にも社会人になってからも恋人はいた。
それでも、気づけばいつも仕事を優先してしまう。
「玲奈は強すぎる。」
「仕事が一番なんだね。」
そう言われて、恋は終わっていった。
それでも玲奈は信じていた。
仕事も。
結婚も。
家庭も。
子どもも。
全部欲しい。
欲張りだからではない。
努力すれば、全部叶えられると信じていたからだ。
そんな玲奈の前に現れたのが、椎名典之だった。
典之は本社への配属が決まる前から有名だった。
高卒のアルバイトから社員となり、本社勤務まで上り詰めた叩き上げ。
そんな経歴だけが一人歩きし、玲奈も勝手に「押しの強い人が来るんだろう」と思っていた。
けれど、実際に会った典之は想像とはまるで違っていた。
穏やかで、人の話をよく聞く。
自分の意見はきちんと持っているのに、それを押しつけることはない。
相手の考えを自然に受け止め、自分の中に取り込める。
まるでスポンジのような人だった。
話し方も、どこか温かかった。
そして、一番驚いたのは、そんな典之が玲奈に好意を寄せていたことだった。
用事がなくても広報部へ顔を出す。
コーヒーを差し入れ、仕事終わりには食事へ誘う。
断っても、翌日にはまた誘ってくる。
今思えば、半分ストーカーだった。
「私みたいな強い女を好きになるなんて、きっとドMなんですよ。」
行きつけのバーで朝倉にそう言うと、朝倉はグラスを傾けながら笑った。
「白石は、自分で思ってるほど強くないけどね。」
「いやいや……じゃあ何なんですかね?」
玲奈は苦笑しながら続けた。
「私と付き合えば出世の後押しになるとか、父を利用したいとか。」
玲奈の父は一流企業の役員だった。
その肩書きを目当てに近づいてくる男は、これまでにも少なくなかった。
「椎名くんも叩き上げの実力者ですから。そのくらい考えてても不思議じゃ…」
「本当にそう思ってる?」
朝倉の一言に、玲奈は言葉を止めた。
一緒に仕事をする中で、典之の人柄はよく分かっていた。
あの人は、そんな打算で動くような人ではない。
「…そうですね。椎名くんは、そんな人じゃないです。」
朝倉は小さく笑う。
「白石は本当は嬉しいんだ。」
「いや…。」
否定しようとして、言葉が続かなかった。
気づけば玲奈も、典之に惹かれ始めていた。
「よし。」
朝倉がグラスを置く。
「ここは私が一肌脱ぐか。」
「えっ?」
その一言が、二人の運命を動かした。
朝倉の後押しもあり、玲奈と典之は結婚することになった。
仕事では旧姓の「白石」を名乗り続けた。
結婚後も仕事への情熱は変わらず、玲奈は34歳で次長に昇進し、37歳で広報部長へ抜擢された。
部長への昇進を一番喜んでくれたのは典之だった。
「やっぱり玲奈さんはすごいよ。」
少し照れくさそうに笑いながら、心から嬉しそうに拍手をしてくれた。
「ここまで頑張ってきたもんね。本当におめでとう。」
誰よりも私の努力を知っていて、誰よりも認めてくれる。
そんな人が隣にいてくれることが、何より嬉しかった。
その日の夜は、二人でささやかな昇進祝いをした。
いつもの行きつけの店で食事をし、帰宅してソファで並んでくつろぐ。
ふと、そんな何気ない時間が愛おしく思えた。
仕事は順調。
部長にもなれた。
結婚生活も穏やかだった。
――全部、順調だった。
だから思った。
「ねえ、子ども、ほしい。」
典之は少し驚いた顔をしたあと、すぐに笑った。
「いいね。」
そして照れくさそうに続けた。
「僕と玲奈さんの子ども、絶対かわいいだろうな。」
その言葉を聞いた瞬間、自然と笑みがこぼれた。
年齢を考えれば決して早くはない。
むしろ、今が最後のタイミングかもしれない。
仕事も。
家庭も。
子どもも。
努力すれば、きっと全部手に入れられる。
玲奈は、そう信じていた。
翌週、婦人科を受診した。
年齢も考え、一度きちんと検査を受けようと思ったからだ。
検査結果は、想像していたより厳しかった。
医師は静かに説明した。
「自然妊娠は簡単ではありません。不妊治療を始めることをおすすめします。」
原因は玲奈側にあった。
ショックはあった。
それでも、まだ諦めるつもりはなかった。
努力すれば、きっと叶う。
そう信じて、不妊治療を始めた。
不妊治療を始めて2年が過ぎた。
治療は思うような結果が出ない。
薬を飲み、通院を重ね、仕事の合間を縫って病院へ通う日々。
気づけば玲奈は39歳になっていた。
仕事は順調だった。
部長として任される仕事は増え、会社からの期待も大きくなる。
やりがいはあった。
この仕事が好きだった。
けれど、仕事が順調であるほど、妊活との両立は難しくなっていった。
急な会議。
出張。
休日対応。
治療の予定を何度も変更しなければならなかった。
診察の日、担当医は検査結果を見ながら静かに言った。
「数値があまり良くありません。」
そして少し間を置いて続けた。
「可能であれば、仕事をセーブされた方がいいでしょう。」
仕事は好きだった。
けれど、仕事は何歳からでもやり直せる。
妊娠には時間がある。
今しかない。
玲奈は、仕事を手放す決意をした。
退職の意思を最初に伝えたのは典之ではなく、朝倉だった。
朝倉は最後まで話を聞くと、しばらく黙り込んだ。
「……休職じゃ駄目なの?」
玲奈は静かに首を横に振る。
「中途半端にはしたくありません。」
「必ず戻ってきます。」
朝倉は玲奈をじっと見つめた。
長い沈黙のあと、小さく息を吐く。
「……分かった。」
朝倉は少し笑い、いつもの穏やかな口調で言った。
「席は空けておく。」
その一言だけだった。
玲奈は深く頭を下げた。
「3年で戻ります。」
そう約束して、会社を去った。
周囲には、母親の介護のための退職だと説明した。
本当の理由を知るのは、玲奈と典之、そして朝倉だけだった。
このとき玲奈は、3年後には必ず会社へ戻り、子どもを抱いている未来を信じていた。
それが叶わない未来になるとは、まだ思ってもいなかった。




