第四章 守りたい笑顔
面会が終わり、職員に促されて立ち上がる。
鉄の扉が閉まる音が、静かな廊下に響いた。
「前へ。」
短く声をかけられ、典之は何も言わず歩き出す。
冷たい廊下を歩きながら、不思議と啓介の最後の言葉だけが頭から離れなかった。
――そんなに好きだった人を、なんで殺したんだよ。
その問いに答えることはできなかった。
答えたくなかった。
答えてしまえば、守りたかったものが壊れてしまう気がしたからだ。
独房へ戻り、薄い布団の上に腰を下ろす。
何もない白い壁を見つめていると、一人の女性の笑顔が浮かんだ。
白石玲奈。
典之が、生涯でただ一人、心から愛した人だった。
玲奈はいつも笑っていた。
誰よりも堂々としていて、誰よりも凛としていた。
だから誰も気づかなかった。
その笑顔が、自分の弱さを隠すための鎧だったことを。
今から10年前。
高卒のアルバイトから社員になり、さらに本社勤務への異動が決まった。
辞令を受けたとき、エリアマネージャーは自分のことのように喜んでくれた。
「うちの会社は、努力した人間が報われる会社だからな。」
その言葉を胸に、本社へ向かった。
そこで出会ったのが、玲奈だった。
書類の束を抱えて廊下を歩く一人の女性。
角を曲がった瞬間、真正面からぶつかってしまう。
「あっ、ごめんなさい! ……あー最悪。資料の順番ぐちゃぐちゃだ。」
床いっぱいに書類が散らばった。
慌てて拾おうとしゃがみ込む。
そのときだった。
「手伝ってくれますか? この量、一人じゃ無理で。」
笑いかけてきたその瞬間、典之の思考は止まった。
――女神って、本当にいるんだ。
柔らかな笑顔。
澄んだ声。
その瞬間、一目惚れだった。
だが、玲奈の魅力は見た目だけではなかった。
一緒に仕事をするようになって、すぐに分かった。
会議では誰よりも堂々と意見を述べる。
部署が揉めれば真っ先に間へ入り、「私がやるから大丈夫」と笑う。
後輩には丁寧に教え、忙しい人がいれば自然と手を貸す。
それなのに、自分の手柄のように振る舞うことは決してない。
誰もが、玲奈は強い人だと思っていた。
――あの夜までは。
残業でオフィスに残っていた典之は、誰もいないフロアで机に突っ伏し、小さくため息をつく玲奈の姿を見た。
昼間とは別人のように小さく見える背中。
「あ……この人も無理してるんだ。」
その瞬間だった。
憧れは、「守りたい」という想いへ変わった。
気づけば、会うたびに好きになっていた。
でも、相手は玲奈だ。
有名大学卒で、本社でも将来を期待される存在。
一方の典之は、高卒の叩き上げ。
年下で、学歴もない。
普通なら、「高嶺の花だったな」で終わる話だ。
だけど、典之は普通じゃなかった。
高卒アルバイトから本社まで上り詰めた人間が、「無理だから」と諦められるわけがない。
だから毎日会いに行った。
用事がなくても広報部へ顔を出した。
コーヒーを差し入れたり、仕事終わりに食事へ誘ったり。
断られても、次の日にはまた誘った。
今思えば、半分ストーカーだったかもしれない。
そんなある日。
「椎名くん、今日仕事終わったら少し時間ある?」
玲奈の直属の上司、朝倉に声をかけられた。
朝倉は広報一筋でキャリアを積み、数少ない女性役員となった人物だった。
玲奈の直属の上司であり、恩師のような存在。
広報部員でもない典之ですら、その二人の信頼関係は知っていた。
朝倉が指定した店は、典之が高校生の頃、アルバイトとして働き始めたパレスHD系列の居酒屋だった。
店に入ると、懐かしい店長が笑顔で迎えてくれた。
「おう、典ちゃん。久しぶり。」
その日は朝倉より少し遅れて店に着いた。
後から聞いた話だけど、朝倉は典之が来る前に店長や当時の仲間たちから、典之がどんな人間だったのかを根掘り葉掘り聞いていたらしい。
席に着くなり、朝倉は切り出した。
「白石のこと、本気なの?」
迷いはなかった。
「本気です。」
朝倉は典之の目をじっと見つめる。
「あなたも分かってると思うけど、白石は名門女子校から有名大学に進んで、本社でも将来を期待されている人材よ。」
一度言葉を切る。
「お父様は一流企業の役員、お母様は名家の出身。正直に言えば……あなたとは育ってきた世界が違う。」
「格差があるってことですよね。」
典之は遮るように答えた。
「はい。そんなことは最初から分かってます。」
朝倉は黙って続きを待っている。
「でも、一つだけ誤解しないでください。」
自然と前のめりになっていた。
「朝倉さん、もしかして僕が白石さんの家柄とか、お金とか、そういうもの目当てだと思ってます?」
「……。」
「違います。」
首を横に振る。
「僕、本当に白石さんが好きなんです。」
言葉が止まらなかった。
「会議では誰よりも堂々と意見を言う。」
「部署が揉めれば真っ先に間へ入り、「私がやるから大丈夫」と笑う。」
「みんなは白石さんを強い人だって言います。」
「でも、僕は知ってるんです。」
「誰もいない夜、一人でため息をついてることを。」
「笑ってるけど、本当は無理してることを。」
「だから守りたいんです。」
胸が熱くなる。
「ああいうところ全部が好きなんです。」
「家柄とか学歴とか関係ない。」
「全部ひっくるめて、白石玲奈という人が好きなんです。」
店内が静かになった。
朝倉は小さく息をついて笑う。
「……そう。」
そして、仕切りの奥へ向かって声をかけた。
「もういいわよ、白石。」
「えっ?」
暖簾の向こうから現れた玲奈は、いつものように笑っていた。
「白石さん……?」
典之は思わず立ち上がった。
「……全部聞いちゃった。」
笑っているのに目だけ真っ赤。
「そういうこと、人前で言う?」
そう言って笑う。
でも最後だけ
「……ありがとう。」
声が震える。
次の瞬間、こらえていた涙が頬を伝った。
―――その笑顔を守りたいと、心の底から思った。
玲奈と典之が結婚したのは、それから半年後だった。
案の定、玲奈の両親や兄弟は結婚に反対した。
名門の家庭で育った玲奈と、高卒でアルバイトから這い上がってきた典之。
育った環境も、学歴も、家柄も、何もかもが違っていた。
それでも典之は諦めなかった。
何度断られても足を運び、何度も頭を下げた。
玲奈を幸せにしたい。
その思いだけを、まっすぐに伝え続けた。
やがて、その誠実さは玲奈の家族の心を動かした。
「玲奈をよろしくお願いします。」
義父がそう言って頭を下げた日のことを、典之は生涯忘れることはなかった。
両親を亡くしていた典之を、玲奈の両親は実の息子のように迎え入れてくれた。
家族ができた。
帰る場所ができた。
休日は義実家で食卓を囲み、何気ない会話を交わす。
そんな当たり前の日常が、典之にとっては何よりも幸せだった。
振り返れば、あれが人生で最も穏やかな時間だったのかもしれない。
結婚生活も落ち着いた頃―――。
ソファで並んでくつろいでいると、玲奈が少し照れくさそうに切り出した。
「ねえ、子ども、ほしい。」
その一言が、二人の運命を大きく狂わせる始まりになるとは、このときの二人はまだ知らなかった。




