第三章 見えない距離
病院の待合室は、不思議なほど静かだった。
時計の針が進む音だけが、やけに大きく聞こえる。
つぐみは受付でもらった番号札を見つめ、小さく息を吐いた。
周りには同じような年代の夫婦や、一人で順番を待つ女性たち。
誰もが口数少なく、静かに順番を待っていた。
数週間前。
結婚式で、甥と戯れる啓介の姿を見た。
あの瞬間、心の奥から自然にこぼれた。
――子どもがほしい。
それは、誰かに言われたからでも、周りに影響されたからでもない。
初めて、自分の意思でそう思った。
啓介に話すと、彼は少し驚いた顔をしたあと、優しく笑ってくれた。
「いいかもしれないな。」
その一言が嬉しくて、つぐみも笑った。
だから今日ここにいる。
夫婦で検査を受けて、原因が分かれば治療する。
きっと、それだけのことだと思っていた。
そう思っていた。
医師の説明は穏やかだった。
専門用語が並び、図を見せられ、治療法についても説明してくれた。
けれど、つぐみの耳に残ったのは、たった一つの事実だけだった。
――原因は、私にある。
そのあと医師は、何度も「可能性はあります」と繰り返した。
「焦らなくても大丈夫です。一緒に頑張っていきましょう。」
つぐみは深くうなずいた。
帰り道、不思議と涙は出なかった。
まだ頑張れる。
そう思えたから。
「――原因は、私にある。」
そう伝えたときの啓介の反応は、思っていたよりずっとあっさりしていた。
「今はいろんな方法があるみたいだし、一緒に頑張っていこう。」
以前、つぐみが送った不妊治療の記事を読んでいたらしく、治療法や専門用語もある程度理解していた。
安心した。
……はずだった。
でも、どこか引っかかった。
病院を探すのも。
予約を取るのも。
次の治療方針を調べるのも。
気づけば、全部私だった。
原因は私にある。
だから、仕方ない。
そう自分に言い聞かせた。
それに啓介も今は大変な時期だった。
幼い頃、弟のように可愛がっていた幼馴染が、妻殺しの容疑で逮捕された。
事件記者として、その事件を追っている。
テレビでは毎日のように事件が報じられていた。
『夫が妻を殺害。動機は依然として不明。』
画面から流れる無機質なニュースを見つめながら、つぐみは思う。
――私は報道カメラマンを辞めた。
事件を追えば追うほど、人の悲しみや絶望に飲み込まれてしまったから。
だから今は動物だけを撮る仕事をしている。
啓介は違う。
事実は事実として受け止め、感情と切り離せる。
だから事件記者を続けられるのだろう。
でも今回だけは違う。
相手は幼馴染だ。
きっと、平気なはずがない。
夏の日差しが、アスファルトを照り返していた。
診察を終えた帰り道。
「……今回も、だめだった。」
つぐみは静かに言った。
啓介はハンドルを握ったまま、小さくうなずく。
「また次があるよ。」
その言葉に悪気はない。
分かっている。
「そうだね。」
笑って返した。
「そういえば、もうすぐ誕生日だよな。何か食べたいものある?」
もうすぐ36歳になる。
もし今授かったとしても、出産する頃には37歳近くになる。
私には、「次」が少しずつ重くなってきていた。
「……さっぱりしたものがいいかな。」
「じゃあビールに合う店でも――」
「あ、お酒はまだ控えてる。」
「あっ……そうだった。」
車内に、短い沈黙が流れる。
つぐみは窓の外へ目を向けた。
そして静かに口を開く。
「啓介。」
「ん?」
「ちゃんと……分かってる?」
その一言には、今まで飲み込んできた不安が少しだけ滲んでいた。




