表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/13

第二章 変わらない笑顔

締め切りを終えた編集部は、束の間の静けさに包まれていた。

啓介は湯気の立つ紙コップのコーヒーを片手に、自分のデスクへ戻る。

「川崎。」

社会部デスクに呼ばれ、顔を上げた。

「新しい担当だ。」

一枚の資料が机の上に置かれる。

啓介は何気なく目を落とした。

――妻殺害事件。

容疑者 椎名典之。

その名前を見た瞬間、思考が止まった。

「……え?」


聞き間違いではない。

何度見返しても、そこには同じ名前が印字されていた。

椎名典之。

幼い頃、毎日のように一緒に遊んでいた弟分だった。

団地の公園を走り回り、夕方になれば一緒に帰る。そんな毎日だった。

「けーちゃん、待ってよ!」

少し丸っこい体で必死についてきた小さな弟分。

転んでは泣き、五分もすればまた笑って走り出す。

そんな典之が、人を殺した――。

どうしても結びつかなかった。

「知り合いか?」

デスクの声で我に返る。

「あ……同じ団地で育った…弟分です。」

「そうか。」

デスクは少し考えるように腕を組んだ。

「取材は全部断ってるらしい。昔のつながりがあるなら、お前なら面会できるかもしれない。行ってこい。」

「…分かりました。」


返事はしたものの、胸の中では別の声が何度も繰り返していた。

――何かの間違いじゃないのか。


数日前、電車の中でつぐみが言った言葉がふと蘇る。

「子ども、ほしい。」

新しい命を望み始めた自分と、

命を奪ったと報じられた幼馴染。

あまりにもかけ離れた二つの現実が、同じ朝に目の前へ突きつけられていた。

啓介は資料を閉じ、取材ノートを鞄へしまった。

事件記者として向き合わなければならない。

それでも胸のどこかで、まだ信じられずにいた。



拘置所へ向かう道中も、啓介は何度も資料を読み返した。

拘置所で典之と会うのは二度目だった。

前回はほとんど話を聞けなかった。

今日は、何としても本音を聞き出したい。

事件のあと、啓介は典之の経歴も調べていた。

小学生の頃に両親が離婚し、団地を離れた典之は、母子家庭で育った。

高校卒業後、大手外食チェーン「パレスHD」の居酒屋でアルバイトを始め、その味覚と発想力を買われて

商品開発部へ異例の大抜擢。

数々のヒット商品を生み出し、将来を期待される存在になった。

十年前には広報部課長だった玲奈に一目惚れし、何度断られても諦めず、猛アタックの末に結婚。

「努力すれば人生は変えられる。」

そんな言葉を、その人生で証明してきた男だった。


面会室。

アクリル板越しに現れた典之は、昔と変わらない笑顔を浮かべていた。

「レストランテ・パレスのハンバーグ、お前が企画したらしいな。」

「そうそう。」

照れくさそうに笑う。

「あれ、甥っ子が好きなんだよ。」

「甥っ子って弟の子?」

「そう。浩介の。」

「えっ、こうちゃん結婚したの? 子どもまでいるの?」

目を丸くして笑う典之は、まるで昨日まで普通に会っていたかのようだった。

「びっくりだなあ。」

何十年ぶりに弟の名前を口にしたとは思えないほど自然だった。

少しの沈黙のあと、典之がふと啓介の左手を見た。

「あ…そういえば、けーちゃん、結婚した……?」

典之の視線が、啓介の左手の指輪で止まった。

「ああ。六年前に。」

「そうなんだ! 奥さん、どんな人?」

「カメラマン。」

「えっ、記者とカメラマン? 職場恋愛じゃん。」

「……まぁな。」

「いいなあ。なんか職場恋愛って響きがいいよね。…って、僕も職場恋愛なんだけど。」

典之は照れくさそうに笑った。

「相当アタックしたらしいじゃん。」

「したした。」

声まで弾む。

「初めて会ったときさ、『この世に女神っているんだ』って本気で思ったんだよ。」

その表情は、事件の被疑者ではなく、恋愛話をする昔の弟分そのものだった。

「仕事もできるし、頭もいいし、誰にでも優しいし。俺なんか玲奈さんより年下だし、高卒だし。玲奈さんは有名大学卒で、広報部の課長だろ?」

苦笑しながら肩をすくめる。

「もう格差、格差、格差。最初は全然相手にもされなかったよ。」

「それでも結婚した。」

「うん。もう必死だった。」

典之は笑う。

「毎日会いに行って、何度断られても諦めなくて…」

「典之らしいな。」

啓介は玲奈にアタックしている典之を想像し、笑った。

「結婚は、玲奈さんのご両親にも、お兄さんにも反対されたけど、それも何度も頭を下げた。」

少し照れたように頭をかいた。

「この人しかいないって思ったから。」

啓介は黙って聞いていた。

目の前の男は、妻を愛していた。

それだけは、痛いほど伝わってくる。

だからこそ、分からない。

「…そんなに好きだった人を。」

気づけば声が漏れていた。

「そんなに好きだった人を、なんで殺したんだよ。」

面会室の空気が止まる。

典之は何も答えない。

「答えろよ。」

思わず声が荒くなる。

「お前が理由もなく、そんなことをする人間じゃないって、俺は知ってる。」

典之は静かに目を伏せた。

「…ごめん。」

「ごめんじゃねぇよ。」

啓介はアクリル板に手をついた。

「ちゃんと理由を話せ。正当防衛でも、事故でも、事情があるなら裁判で考慮されるかもしれない。」

典之は小さく首を横に振る。

「けーちゃん。」

その声だけは、昔と何も変わらなかった。

「言えないんだ。」

「なんでだ。」

「言ったら…全部壊れるから。」

啓介の眉が動く。

「……………壊れる?」

典之はゆっくり目を閉じた。

そして、小さく笑った。

その笑顔は、どこか全てを諦めたようにも見えた。

「いいんだよ。」

「……………え?」

「僕が玲奈さんを殺した。」

一拍置いて、静かに続ける。

「…それが、全てなんだ。」


その言葉だけを残し、典之は口を閉ざした。

啓介は何も言えなかった。

目の前にいるのは、本当に妻を殺した男なのか。

それとも、何かを守るために全てを背負った男なのか。

その答えだけは、どうしても見えなかった。


時間になり、刑務官に促されて典之が立ち上がる。

「けーちゃん。」

「ん?」

「……そういえば、子どもは?」

「いや、まだ。」

「そっか。」

典之は少しだけ目を細めた。

「……できるといいな。」

典之は少しだけ笑い、面会室を後にした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ