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第一章 はじまりの日

結婚式は、春らしい穏やかな陽気だった。

教会を出ると、柔らかな風が桜の花びらを運んでくる。

新郎新婦に向かって拍手が起こり、誰かが「おめでとう!」と声を上げた。


川崎つぐみはカメラを構え、何枚もシャッターを切る。

仕事じゃない。今日はただ、大切な家族の一日を残したかった。

「つぐみ!」

振り返ると、夫の啓介が笑って手を振っている。

そして、三歳になる甥が啓介の背中によじ登ろうとしている。

「おいおい、重いって。」

そう言いながらも、啓介は笑っていた。

結局そのまま肩車をしてしまい、甥は得意げに両手を広げる。

「たかーい!」

親族たちの笑い声が広がった。

「走って!」

「はいはい。」

啓介は甥を軽々と肩車すると、そのまま芝生を駆け出した。

高く持ち上げられた男の子は、きゃっきゃっと声を上げて笑う。

普段、事件ばかり追いかけている記者とは思えない。


あんな顔もするんだ。

つぐみ思わずファインダーを覗いた。

シャッターを切る。

一枚。

もう一枚。

甥を見上げて笑う啓介の横顔は、どこまでも優しかった。

その瞬間だった。

ふいに思う。

―この人との子どもが欲しい。

自分でも驚くほど自然な気持ちだった。


結婚して六年。

二人とも仕事が楽しかった。

海外取材があれば飛び、徹夜で原稿を書き、締切が終われば酒を飲む。

子どもの話を、避けてきたわけではない。

ただ、いつか自然に─。

そんなふうに思っていた。


ただ、この瞬間

この人が父親になった姿を見てみたい。

そう思った。

「どうした?」

いつの間にか啓介が戻ってきていた。

「いや。」

つぐみは慌てて首を振る。

「なんでもない。」

「変なの。」

啓介は笑いながら甥の頭を撫でる。

その何気ない仕草まで優しく見えて、私は少しだけ照れくさくなった。

春の空は高く、どこまでも青かった。


式場を出る頃には夕暮れになっていた。

電車の窓に街の灯りが流れていく。

しばらく沈黙が続いた。

啓介はスマートフォンで、今日撮られた親族写真を眺めている。

つぐみは窓ガラスに映る自分を見ていた。

窓ガラスには、並んで座る私たちの姿がぼんやり映っていた。

「ねえ。」

啓介が顔を上げる。

「ん?」

少しだけ迷ってから、つぐみは言った。

「子ども、ほしい。」

電車が鉄橋を渡る音が響いた。

啓介はすぐには答えなかった。

驚いたというより、その言葉が自分たちの間に存在するとは思っていなかったような顔だった。

やがて、小さく笑う。

「急だな。」

「……うん。」

「でも。」

啓介はもう一度、窓の外へ目を向けた。

流れていく街明かりが、ガラスに滲んでいた。

「いいかもしれないな。」

つぐみは何も言わず、小さく頷いた。

その夜、二人は未来の話をした。

どんな名前がいいだろう。

男の子なら。

女の子なら。

どんな家に住もうか。

仕事はどうしようか。

まだ見ぬ誰かのために、二人は何度も笑った。

そのときはまだ知らなかった。

未来を思い描くことと、その未来にたどり着けることは、まったく別の話なのだということを。



思い立ったら、そのまま動く。

昔からそういう性格だった。

気になるカメラがあればその日のうちに店へ行くし、撮りたい景色があれば始発に飛び乗る。

だから今回も同じだった。

翌朝、仕事へ向かう電車の中で産婦人科を検索し、その場で予約を入れた。

三十五歳。

出産を考えるには、決して早い年齢ではない。

友人たちからも何度も聞いていた。

「まず病院に行ったほうがいいよ。」

「自己流で何年も過ごすより早いから。」

だから迷いはなかった。


その日の夜、夕食を食べながら私は言った。

「来週、病院を予約した。」

啓介は味噌汁を飲む手を止める。

「…早いな。」

思わず笑ってしまう。

「昨日、『子どもほしい』って言ったばっかりなのに?いや、つぐみらしいけど。」

啓介は肩をすくめた。

つぐみはスマートフォンを取り出す。

「木曜日、休みでしょ?」

「うん。」

「最初は一緒に来てほしい。男性側の検査の話もあると思うし。」

啓介はあっさりとうなずいた。

「いいよ。」

反対はしない。

やりたいと言えば付き合ってくれる。

昔からそういう人だ。

でも―。

つぐみはスマートフォンに表示した画面を彼の前へ差し出した。

「これ、不妊治療のことがまとまってるサイト。時間があるとき読んでおいて。」

啓介は画面を一瞥して、

「ああ。」

とだけ答えた。

その返事は軽かった。

読まないつもりではない。

けれど、自分から知ろうとしているわけでもない。

そんな温度だった。


友達が言っていたことを思い出す。

「悪気はないんだよね。でも、最初は女の人ばっかり動くことになる。」

そのときは大げさだと思って笑っていた。

けれど今なら少しだけ分かる気がした。

この日から始まるのは、二人の妊活のはずなのに。

最初の一歩を踏み出しているのは、どうやら私だけらしい。



数日後、予約した産婦人科を訪れた。

待合室には十人ほどの女性が座っていた。

お腹の大きな人。

小さな子どもを連れた人。

夫婦で来ている人もいたが、男性は数えるほどしかいない。

啓介は落ち着かない様子で辺りを見回していた。

「ちょっと外でタバコ吸ってくる。」

そう言って立ち上がる。

「もうすぐ呼ばれるかもしれないよ。」

「大丈夫。すぐ戻る。」

そう言って出て行った。

送った不妊治療のサイトは、どうやら読んでくれたらしい。

夕べ、「男も検査するんだな」とだけ言っていた。

ちゃんと読んではいる。

興味がないわけでもない。

でも、どこか他人事のような口ぶりだった。

きっと悪気はない。

ただ、まだ自分のこととして考えられていないだけなのだ。

「川崎つぐみさん。」

受付で名前を呼ばれる。

時計を見る。

啓介はまだ戻ってきていない。

つぐみは受付へ近づいた。

「すみません。主人が戻ってきたら、診察室へ案内していただけますか。」

受付の女性は慣れた様子で微笑んだ。

「もちろんです。」


診察室へ入ると、白衣を着た女医がカルテを開いていた。

五十代半ばくらいだろうか。

柔らかな笑顔が印象的な先生だった。

「こんにちは。」

「よろしくお願いします。」

椅子に腰掛けると、先生はカルテから顔を上げた。

「旦那さんはご一緒じゃないの?」

「あ……すみません。外でタバコを吸っていて。」

一瞬の間のあと、先生はふっと笑った。

「あはは。男の人なんて、最初はそんなものよ。」

その言葉に少しだけ肩の力が抜ける。

責められるかと思っていた。

「さて。」

先生は表情を少しだけ引き締めた。

「妊娠をご希望ということですね。」

「はい。」

「年齢は三十五歳。ご結婚されて六年……これまで避妊は?」

「仕事が忙しくて、本格的には考えていませんでした。」

先生はうなずきながらメモを取る。

「分かりました。まずは基本的な検査から始めましょう。」

「血液検査とホルモン検査、それから超音波検査。必要に応じて卵管の検査も考えます。」

つぐみは黙ってうなずいた。

知らない言葉が次々に出てくる。

そのたびに、妊娠は『授かるもの』ではなく、『調べて、考えて、進めていくもの』なのだと実感した。

先生は続ける。

「それから、ご主人にも検査をお願いしたいですね。」

ちょうどそのとき、診察室のドアが遠慮がちにノックされた。

「失礼します。」

啓介だった。

「すみません、遅れました。」

先生は笑って椅子を勧める。

「ちょうど良かったわ。実はね、ご主人にも大事なお話があるの。」

啓介は少し姿勢を正した。

「妊娠は女性だけの問題じゃありません。原因は男性側にも女性側にもあります。だから、最初からお二人で進めていきましょう。」

啓介は真面目な顔でうなずいた。

「分かりました。」

その返事は誠実だった。


でも私は、このときまだ気づいていなかった。

"分かること"と、"自分のこととして受け止めること"は、少しだけ違うのだということに。

そして、この"少しだけ"が、二人を想像もしなかった場所へ連れていくことになることも。

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