プロローグ
ガラス一枚隔てた向こうに、椎名典之は座っていた。
拘置所の面会室は、想像していたよりも静かだった。
壁も、机も、椅子も、すべてが白く塗られている。消毒液の匂いが鼻の奥に残り、空調の低い音だけが途切れることなく響いていた。
川崎啓介は受話器を握る手に、わずかに力を込めた。
目の前の男は、ニュースで何度も見た「妻殺害事件の被告」だ。
それなのに、記憶の中では今も、団地の公園を走り回っていた少年のままだった。
「けーちゃん、待ってよ」
少し丸っこい体で必死についてきた、小さな弟分。
転んでは泣き、泣いたかと思えば、五分後にはまた笑っていた。
そんな典之が、人を殺した。
その事実だけが、どうしても現実として受け止められなかった。
二人は受話器を耳に当てたまま、しばらく何も話さなかった。
沈黙だけが、ゆっくりと流れていく。
やがて、典之が口を開いた。
「けーちゃん……久しぶりだね」
その声は、拍子抜けするほど昔のままだった。
啓介は「久しぶり」と返しかけて、言葉を飲み込む。
久しぶり。
その一言で済ませていい再会ではない。
「けーちゃんはいくつになっても、やっぱりかっこいいね」
典之は照れくさそうに笑った。
少しふっくらした頬も、笑うと細くなる目も、昔と変わらない。
テレビで見た「殺人事件の被告」の顔ではなく、啓介が知っている椎名典之の笑顔だった。
「…取材、受けてくれてありがとう」
ようやく啓介が口を開く。
「他の記者の取材は、全部断ってるんだろ」
典之は照れたように頭をかいた。
「だって、知らない人と話すの苦手なんだもん。」
少し笑って続ける。
「弁護士さんから、『けーちゃんが会いたいって言ってる』って聞いてさ。嬉しかったんだよね。」
啓介は返す言葉が見つからなかった。
事件のあと、初めて会った幼なじみは、あまりにも昔のままだった。
典之はふと思い出したように笑顔を見せる。
「そうそう。玲奈さんの写真、見た?」
啓介は小さくうなずく。
「めちゃくちゃ美人でしょ?」
典之は少し誇らしげに笑う。
「僕にはもったいないくらい、きれいな人なんだ。」
その言葉に、啓介の胸がざわついた。
目の前の男は、自分の手で命を奪ったはずの妻を、今も変わらず「玲奈さん」と呼び、美人な奥さんだと笑っている。
ニュースは事件の事実だけを繰り返し伝えていた。
夫が妻を殺害。
動機は不明。
報じられるのは、それだけだ。
けれど、啓介にはわかった。
この事件は、そんな数行で終わる話ではない。
彼は受話器を握り直した。
記者としてではない。
幼い頃から知る、一人の弟分の話を聞くために。




