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星降る教室で、きみと無敵になる――「大丈夫」と笑っていた私を、きみだけが見抜いてくれた  作者: 明石竜


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第三話 大丈夫じゃない夜

 雨が降り始めたのは、放課後の四時過ぎだった。

 最初は窓を叩く音が小さく、ひまりは気にしていなかった。でも十分もしないうちに、音が変わった。屋根を打つ、重い雨の音になった。

 廊下から声が飛び込んできたのは、ひまりが装飾の続きを始めようとしていたときだった。

「やばい、水が来てる」

 教室を飛び出すと、廊下の先が騒がしくなっていた。理科室の前あたりに人が集まっている。ひまりも走った。

 天井の継ぎ目から、水が垂れていた。ぽたぽたではなく、線になって落ちている。その真下に、クラスの展示パネルが立てかけてあった。文化祭に向けて二週間かけて作ったもの。星を散らした黒い台紙に、企画の説明とメニューを貼り合わせた、一番の見せ場になるはずだったものが、端から濡れていた。

 誰かが「先生呼ぼう」と言った。誰かが走った。誰かがパネルを動かそうとして、紙が破れた。

「ひまり、どうする?」

 美咲が振り返った。その目が、ひまりに答えを求めていた。

「相坂さんなら何とかできるよね」

 後ろにいたクラスメイトの誰かが、悪気のない声で言った。

 ひまりは一秒、息を止めた。

「大丈夫。なんとかする」

 笑って言った。

 そのときはまだ、本当にそう思っていた。


 本当に大丈夫ではないと気づいたのは、一時間後だった。

 先生が来て、雨漏りの応急処置がされた。パネルは端の三分の一が使えなくなった。濡れた台紙は乾かしても波打つ、と先生が言った。全部作り直したほうが早いかもしれない。

 文化祭まで三日。

 クラスメイトたちはそれぞれ状況を確認して、帰っていった。

「ひまりがなんとかしてくれるって言ってたし」という声が聞こえた。

 教室に戻ると、作りかけの飾りと、手つかずのシフト表と、修正が必要なメニュー表が、机の上にあった。 

 パネルの代わりになるものを考えなければいけない。

 装飾も作り直しが出る。

 宣伝担当の子が今日、体調を崩して早退した。当日の案内係もまだ足りていない。

 ひまりは椅子に座った。

 紙を一枚手に取って、何か書こうとした。

 何も書けなかった。

 ハサミを持ち直した。星形を切ろうとした。

 線がぶれた。

 手が、少し震えていた。

 泣くのは嫌だった。泣いたら、全部崩れる気がした。大丈夫だと思い込んでいた自分が、そうではなかったことになる。

 だから笑おうとした。

 笑えなかった。

「全部作り直すのは無理」

 声がした。

 振り返ると、しずくが教室の入口に立っていた。

 ひまりは目を瞬かせた。しずくはひまりの机に近づいて、濡れたパネルの残骸と、机の上の材料と、作業リストを順番に見た。

「三日で全部はできない」

「でも、やらなきゃ。みんな楽しみにしてるし」

「みんなって誰?」

 しずくは教室を見回した。がらんとした教室に、今いるのはひまりとしずくだけだった。

「今ここにいない人たち?」

 何かが、ひまりの中で爆ぜた。

「黒瀬さんには分からないよ」

 声が思ったより大きく出た。しずくが少し目を細めた。

「みんなに期待されるのって、結構しんどいんだよ。大丈夫って言わなきゃいけないし、なんとかしなきゃいけないし、笑ってなきゃいけないし。それが全部崩れそうになってるときに、無理って言われても」

 声が揺れた。止めようとしたけど、止まらなかった。

「私だって、本当は誰かに頼りたい。でも頼ったら、頼まれたほうが嫌な気持ちになるかもしれないじゃん。嫌われたくないから、自分でやるしかないじゃん」

 しずくは黙って聞いていた。表情が変わらない。それがひまりには、余計に苦しかった。

「黒瀬さんは関係ないって思ってるかもしれないけど、毎日ちょっと話すようになって、私は助かってたんだよ。なのに手伝えないとか、空気悪くなるとか、そんな理由で離れてる人に言われたくない」

 言ってから、言いすぎたかもしれないと思った。

 しずくは少し間を置いた。ひまりから目をそらさないまま、低い声で言った。

「分からない。期待される気持ちは、私には分からない。そういう立場になったことがないから」

 ひまりは唇を結んだ。

「でも」

 しずくが続けた。

「一人で勝手に潰れるのは違うと思う」

 声に、わずかに力があった。しずくが声を強くするのを、ひまりは初めて聞いた。

「私が手伝わないのは、関係ないからじゃない。入ったら迷惑になると思ってるから。でも相坂さんは、迷惑になるかどうかも考えないで全部引き受けて、限界になってる。それは違う」

「どう違うの」

「私は、誰かを守ろうとして離れてる。相坂さんは、自分が傷つきたくないから引き受けてる」

 ひまりは何も言えなかった。

 正確すぎて、反論できなかった。


 しばらく、どちらも話さなかった。

 雨はまだ降っていた。窓の外の暗さが深くなっている。廊下から、別のクラスの生徒が笑いながら通り過ぎる声が聞こえた。

 ひまりは机の端を見ていた。しずくは黒板を見ていた。

「誰かに本気でやってもらったら、浮くと思ってた」

 しずくが先に口を開いた。

 ひまりは顔を上げた。

「中学のとき、みんなが適当に楽しんでいる場所に、一人だけ本気で作ったものを持っていったら、引かれた。それから、人前で本気を出すのをやめた」

 淡々とした口調だったけど、今まで聞いたことのない種類の言葉だった。

「だから手伝いたくなかった。また同じことになる気がして」

「黒瀬さんが怖かったのも、私と同じじゃん」

 しずくは少し間を置いた。

「似てるとは思いたくない」

「でも、似てる」

 しずくはひまりを見た。

 ひまりも、しずくを見た。

 どちらも笑わなかった。笑えなかったし、笑わなくていいと思った。


 しずくが黒板を見たまま言ったのは、それから少し経ってからだった。

「パネルを作り直すんじゃなくて、黒板を使えばいい」

 ひまりは黒板を見た。

「黒板全体に、星空を描く」

「黒板に?」

「うん。ここをメインにする」

 しずくは黒板の中央を指さした。

「濡れたパネルの代わり。教室に入ったとき、正面に星空が見えればいい」

「メニュー表は?」

「手描き風にそろえる。黒板と雰囲気を合わせる」

 ひまりは頭の中でそれを想像した。

 黒板いっぱいの星空。入口から見たとき、奥に広がっているように見える形。テーブルの上の小物や飾りも合わせて、教室全体が夜の空になる。

「それ、できる?」

「描くのは私一人じゃ無理。でも、構図とデザインは出せる」

「手伝ってくれるの?」

 しずくはひまりを見た。

「相坂さんが、人を動かせるなら」

 ひまりは少し息を吸った。

 人を動かす。今まで、ひまりは引き受ける役だった。頼まれたら受ける、穴が空いたら埋める。そういうやり方しかしてこなかった。

 でも、クラスメイトの顔が浮かんだ。

 字が綺麗な木村さん。折り紙なら任せてと言っていた田辺くん。声が大きくて、廊下を歩くだけで周りが振り向く高橋さん。計算が誰より早い佐藤さん。部活で遅くなるけど、朝は早く来られると言っていた林さん。

 みんながいる。

 ひまりが知っている、みんながいる。

「できる」

 しずくは小さく頷いた。



 翌朝、ひまりはいつもより早く登校した。

 教室の前に立ったとき、鼓動が速かった。嫌われたくない気持ちが、また頭に浮かんだ。頼んで断られたら。迷惑そうな顔をされたら。

 でも、しずくの顔が浮かんだ。

 一人で勝手に潰れるのは違う。

 ひまりはドアを開けた。

 登校してきたクラスメイトたちが集まるのを待って、前に立った。いつもなら笑って「大丈夫」と言うところだった。今日は少し違う顔をしている自分が分かった。

「お願い。みんなの力を貸してほしい」

 緊張で声が震えかけた。それでも、最後まで言った。

 その隣に、しずくが立っていた。

 手には、星空の黒板アートのラフ案があった。

 ひまりは一度だけ、隣を見た。

 しずくは何も言わなかった。ただ、ラフ案を持つ手に少しだけ力を込めていた。

 その無言の「いるよ」が、ひまりの背中を押した。


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