第七章 シャクレの起源
■シャクレの起源
海くんと空くんに出会ったころ、寅次郎はまだ若かった。
赤毛の艶もよく、胸を張って歩く姿はどこか誇らしげで、豆柴の中でもひときわ整った顔立ちをしていた。
その頃、誰もまだ彼を“シャクレ”と呼ぶことになるとは思っていなかった。
2015年の2月、去勢手術の日。
いつも通っていた動物病院の白い診察室で、寅次郎は小さな体を震わせながらも、じっとこちらを見つめていた。
「大丈夫だよ、すぐ終わるから」
そう声をかけながら、私は彼の瞳の奥にある不安を感じていた。
けれど、その不安を振り払うように、彼は最後まで堂々としていた。
麻酔から醒めた後、クレートの中の寅次郎は、痛みと混乱の中で小さな声を上げていた。
「キュ、キュキュ……」
その声が、今も耳に残っている。
しばらくして、彼は痛みに耐えながら、金属の網に噛みついた。
何度も、何度も。
まるで自分の体に起きた変化を理解しようとするかのように。
数日後、ふと気づくと、寅次郎の下顎がほんの少し前に出ていた。
それが、あの“シャクレ”のはじまりだった。
以来、散歩仲間の柴友たちは、愛情をこめて彼を「シャクレの寅」と呼んだ。
その呼び名はどこか親しみを帯び、寅次郎自身も気にする様子はなかった。
むしろ風が顔に当たると、しゃくれた口元がどこか誇らしげに見えたものだ。
あのときの痛みが、彼の表情を形づくったのだと思うと、胸が締めつけられる。
だが同時に、あの少し出た下顎は、寅次郎という存在の象徴でもあった。
苦しみを超えて、彼は自分だけの顔を手に入れたのだ。
そして今も私は思う。
あの“シャクレ”は、痛みの跡ではなく、生き抜いた証なのだと。




