第六章 海と空とおっちゃん
2015年1月。
吐く息が白く、街の空気がきりりと冷えていた。
正月明けの休日、
私たちはパシフィコ横浜で開かれていた「ペット博」に出かけた。
会場の入口では、
犬たちが行き交い、リードの色がまるで糸のように絡み合っていた。
ストーブの熱気と冬の外気が入り混じり、
その中に無数の匂いと鳴き声が漂っていた。
寅次郎は、生後六か月。
子犬のあどけなさをまだ残しつつも、
目元には少しだけ“自我”の影が出てきたころだった。
人混みに少し戸惑いながら、
私の足元をしっかりとついて歩いた。
そのとき、
低くてよく通る声が背後から聞こえた。
「おう、もしや富士野荘か?」
振り向くと、
革のエプロンをつけた中年の男が立っていた。
日焼けした肌に深い笑い皺、
その隣には寅次郎と同じ顔をした赤柴が二匹―。
「うちは伊東から来とる。富士野荘や。」
その言葉に、思わず声が出た。
「えっ、うちもです。」
「やっぱりな!」
男はにっと笑い、二匹を前に出した。
「この子ら、夫婦や。海と空」
寅次郎は少し身構えたが、
海くんが軽く鼻を寄せ、空ちゃんが静かに尻尾を振った。
その仕草に安心したのか、
寅次郎も鼻を伸ばして匂いを確かめた。
三匹の頭が一瞬寄り添い、
まるで小さな輪をつくるように並んだ。
「ほんまに似とるやろ。」
おっちゃんが笑う。
「顔の筋、目の奥の色、よう似とる。」
おっちゃんは革職人だった。
伊東の自宅で首輪やリードを手作りしているという。
ブースのテーブルの上には、
艶のある革製品が整然と並び、
どれも温もりを感じる仕上がりだった。
「犬を見ながら作ると、どんな革がいいか分かるんや。
生きもんを相手にしてると、こっちの心もやわらかくなる。」
その言葉に、なぜか心が動いた。
おっちゃんの声は太く、けれど優しかった。
「伊東からここまで大変だったでしょう。」
「いやあ、毎年恒例や。旅みたいなもんやな。
海も空も道中ずっと寝とるけど。」
その言葉を聞きながら、
“犬を連れて旅をする”という響きに
どこか羨ましさを覚えた。
「今度、飲みに行きましょう。」
思わずそう言うと、
おっちゃんは目を細めて笑った。
「ええな。俺、酒弱いけど話は長いで。」
帰りの車の中、
後部座席で眠る寅次郎の毛に、
夕方の光が淡く差し込んでいた。
妻が静かに言った。
「会えてよかったね。」
「うん。富士野荘の子たちは、どこか通じ合ってる気がする。」
ミラー越しに見たその寝顔は、
安心と誇りに包まれたように穏やかだった。
あの日の出会いは、
単なる偶然ではなく、
“富士のふもとで結ばれた血の記憶”が
再び引き寄せた縁だったのかもしれない。




