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第五章 静かな印
散歩デビューから数日後の朝。
前回と同じ道を歩いていた。
風の匂いも、車の音も、
寅次郎にとってはまだ新しいものばかりだった。
角を曲がるたびに立ち止まり、
電柱の根元や植え込みの草を慎重に嗅いでいた。
他の犬たちの残した“言葉”を読むように、
鼻をわずかに動かし、
ときどき振り返って私を見る。
「気になるか?」と声をかけると、
尻尾がひとつ、静かに揺れた。
やがて、寅次郎はひとつの場所の前で足を止めた。
しばらく匂いを嗅いだあと、
腰を少しだけ落とし――
そのまま、後ろ脚を揃えて放尿した。
脚を上げることはなかった。
右も左も、地面にぴたりとつけたまま。
まるで地球に礼をするような姿勢だった。
その様子を見て、
私は思わず笑ってしまった。
「寅、お前、足上げへんのか。」
妻も笑いながら言った。
「なんか、ちゃんとしているね。育ちがいいのかも。」
確かに、
寅次郎の放尿はどこか“儀式”のように見えた。
誇示も虚勢もなく、
ただ静かに、
“ここに自分がいる”という印だけを残す。
他の犬のように激しく脚を上げることは、
生涯一度もなかった。
寅次郎のマーキングはいつも静かで、短く、正確だった。
その慎ましさが、
やがてこの犬の生き方そのものになる。
――存在を叫ばず、
ただ確かに残していく。
その小さな行為を、
私は後に何度も思い出すことになる。




