第三十五章 酸素ハウスの静寂
リビングの隅に置かれた透明な箱の中で、寅次郎は必死に呼吸をしていた。
酸素の流れるかすかな音が、部屋の空気をわずかに震わせていた。
その音は、長い歳月の終わりを告げる鼓動のようでもあり、
まだこの世界に留まろうとする生命のささやきのようでもあった。
私はその箱のそばに座り、
二日目の夜を、ただ黙って見つめていた。
毛並みは白く淡く、
ところどころに、老いが見られた。
閉じられたままの目元に手を添えると、
かすかにまぶたが動いたように見えた。
この酸素ハウスを手配したのは二日前、
2026年1月16日のことだった。
寅次郎の体はもう、自分の力で酸素を取り込むことが難しくなっていた。
けれど、この箱に入った途端、
彼は少し落ち着いたように見えた。
だが――
その時間は長くは続かなかった。
酸素ハウスを使ったのは、わずか二日だった。
その日、
いつもの排便マッサージをしようとした。
だが寅次郎は珍しく嫌がった。
今までそんなことはほとんどなかった。
オゾン注射もやめることにした。
これ以上寅次郎の体に負担をかけたくなかった。
日付が変わった。
午前〇時十五分。
私は何の予感もなく寅次郎の近くで寝ようとしていた。
静かな夜だった。
そのときだった。
寅次郎が酸素ハウスから出たいという仕草を見せた。
妻がそっと抱き上げた。
寅次郎は妻の腕の中にいた。
「がんばれ」
妻がそう声をかけた。
そのとき――
寅次郎が何かを訴えるように小さな声を出した。
そしてその直後だった。
寅次郎の呼吸が止まった。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
妻は泣きながら
「がんばれ」
そう言い続けていた。
私はとっさに酸素マスクを寅次郎に当てがった。
「戻ってこい」
「戻ってこい」
私は何度も叫んでいた。
妻も必死に心臓マッサージを続けた。
だが――
寅次郎は動かなかった。
部屋の中は急に静かになった。
さっきまでそこにあった命が突然止まった。
それでも私はしばらくの間寅次郎の顔を見続けていた。
今にも目を開けるんじゃないか。
もう一度、呼吸をするんじゃないか。
そんなことを本気で思っていた。
寅次郎の体はまだ温かかった。
だからなおさら
寅次郎が逝ってしまったことが現実とは思えなかった。
寅次郎は――眠っているようだった。
その夜、時間だけが静かに過ぎていった。
そして――最後のうんちが、出かかっていた。




