第三十三章 穏やかな年越し
正月になると、
わが家には毎年の恒例行事があった。
箱根駅伝の応援である。場所は決まっていた。
一号線、六郷橋。
寅次郎と一緒に沿道でランナーたちを迎える。
妻のスリングの中に入り、そこからちょこんと顔を出している寅次郎。
その姿は沿道でもひときわ目立っていた。
「かわいい」
「写真いいですか?」
周りの人たちから次々と声がかかる。
寅次郎は相変わらずのあほ面で、ただ外を眺めているだけなのに、
なぜか人を惹きつけた。
そして――
テレビカメラもまた寅次郎を見つけてしまう。
しかも決まってカメラ目線だった。
一度ではない。
二度でもない。
三年連続で映った。
テレビを見ていた寅次郎ファンからは、「映ってたよ」
そんなメッセージが毎年のように届いた。
六郷橋の応援はいつしか寅次郎の正月の風物詩になっていた。
だが――
その年の正月は六郷橋へ行くことができなかった。
寅次郎はもう歩けなかった。
テレビで六郷橋の中継を見た。
その年のレースは団子状態のデットヒートではなかった。
先頭は大きく離れカメラはランナーだけを追っていた。
沿道が長く映ることはほとんどなかった。
あの展開では――たとえ六郷橋へ行っていたとしても、
寅次郎が映ることはなかっただろう。
そう思った。
だが、それはただの偶然だったのだろうか。
ふと、そんなことを思った。
年末年始は静かに過ぎていった。
寅次郎は食欲もあり、元気だった。
バルーンカテーテルのおかげで排尿のために通院する必要もなくなった。
オムツを替えるたびにカテーテルを消毒する。お尻をマッサージして排便する、全て順調。ワセリンを塗る。
それがわが家の日課になった。
傷口の状態も大きく悪くはなかった。
だが、膿は出ていた。
完全に安心できる状態ではなかった。
それでも寅次郎は生きていた。年を越すことができた。
近所の氏神様へ初詣に行った。寅次郎を頼みます。それ以外、唱える言葉はなかった。
寅次郎の故郷が遠くに見えていた。何事もない日々が続くと思っていた。
だが――
胸の奥にはなんとなくいやな予感があった。
寅次郎の舌が少し白くなってきていた。
血液の状態が悪くなり始めているのかもしれない。
薬漬けの体。漢方で保っている微妙なバランス。
このまま持ちこたえてくれるのだろうか。
そんな思いが頭をよぎる。
それでも正月は穏やかだった。




