第三十一章 崩れるもの
とある冬の早朝だった。
リビングはまだ薄暗く、
静寂が部屋の隅々まで満ちていた。
私はソファで仮眠をとっていた。
すぐそばには寅次郎のハウスがあり、
その中で、寅次郎は座っていた。
目を閉じていたはずなのに、
その姿勢がどこか不自然で、胸騒ぎを覚えた。
その静けさを破ったのは、
妻の悲鳴だった。
「寅──!」
飛び起きた私は、
ハウスの中を見て息をのんだ。
寅次郎の口のまわりが真っ赤に染まっていた。
息を荒げ、
それでも姿勢を崩さずに、じっとこちらを見ていた。
一瞬、何が起こったのかわからなかった。
けれど、すぐに全身の血の気が引いた。
傷口はあまりにも深く、
それが“事の重大さ”を物語っていた。
「寅──!」
声を上げながら毛布を掴み、
震える手でその体を包み込んだ。
寅次郎はまだ温かく、
意識もはっきりしていた。
その瞳に、
まだ“生きよう”という力が残っていた。
「一刻も早く見てもらわなければ。」
口にした声が震えていた。
⸻
その日、小助が見舞いに来てくれる予定だった。
けれど、
今の寅次郎を見せることはできなかった。
「今日は無理だ。ごめん。」
そう伝える声が、かすかに震えた。
小助との再会は、
寅次郎にとっても、私たちにとっても特別な時間になるはずだった。
だが、その希望さえも、
今は遠ざけるしかなかった。
――どうして気づかなかったのか。
私は、すぐ近くにいた。
同じリビングで、
ハウスの中の寅次郎を見守っていたはずだった。
それなのに、
あの瞬間の痛みの声にも気づけなかった。
もし目を開けていたら、
もし声をかけていたら、
何かが違っていたのではないか――。
そんな考えが頭の中を何度も駆け巡った。
毛布の中の寅次郎を抱きしめながら、
その温もりが消えていくのが怖かった。
時計を見ると、
まだ夜明け前。
かかりつけの病院は閉まっている。
私はスマートフォンを手に取り、
震える指で検索を打ち込んだ。
“動物 救急 夜間 川崎”
画面が滲み、文字がうまく読めない。
それでも、必死に番号を探し、一軒ずつかけていった。
妻が寅次郎の体を抱きしめ、
「もう少しだからね」と
何度も声をかけ続けていた。
車に乗り、
夜明けの道路を走った。
信号の光が滲み、
胸の鼓動だけがはっきりと響いていた。
毛布の中の寅次郎は、
ときどき小さく息を吐いた。
そのたびに、
まだ大丈夫だと自分に言い聞かせた。
救急病院の明かりが見えたとき、
胸の奥で何かが切れた。
安心でも、希望でもなく、
ただ、間に合ってくれという願いだった。
扉を開け、
震える腕で寅次郎を抱きしめたまま叫んだ。
「お願いします!この子を見てください!」
処置室へ運ばれた寅次郎の姿を見送りながら、
私は、立っていられないほどの脱力を感じていた。
心の奥で、
まだ「助かる」と信じていた。
そう信じなければ、
崩れてしまいそうだった。
命が壊れる瞬間、
人は無力の中で希望を探す。
それがどんなに愚かでも、
それが“生きる者”の本能だ。
あの朝、
同じ部屋にいながら気づけなかった自分を、
私は今も赦せない。
毛布に包んだ寅次郎の温もりだけが、
その赦しのかわりに残っている。




