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第三十章 支えるということ

冬が深まり、

空気の冷たさが骨に染みる季節になった。

朝、リビングに差し込む光は淡く、

それでも寅次郎の毛をやさしく照らしていた。


お尻の傷が、日に日にひどくなっていった。

後ろ脚を動かせないまま、

体を引きずるようにして動くため、

皮膚が擦れてただれ、

毛がすっかり抜け落ちた。


そこに、ワセリンを塗る。

指先が触れると、

赤くなった皮膚がかすかに熱をもっているのがわかる。

痛みを感じながらも、

寅次郎は小さく息を吐くだけで、何も言わなかった。


毛のなくなったお尻の温もりが、

人間よりもずっとやさしく、

儚いぬくもりだった。

排便も自力では難しくなっていた。

肛門の周囲をやさしくマッサージすると、

わずかに反応が起きる。

そのたびに、

身体の奥から「まだ生きよう」とする力が見えた。


それは日課というより、

命を呼び戻すための儀式のように感じられた。


一方、排尿はもう自宅ではできなかった。

膀胱に尿が溜まるのに出せず、

苦しそうに息を荒げる。

カテーテルによる排尿は、

病院でしかできなかった。


そのため、数日に一度、

妻が寅次郎を車に乗せ、病院へ連れて行った。

短い距離でさえ、

振動で痛がるため、

助手席で体を支え続けるしかなかった。


出勤や出張は、もう不可能だった。

誰かに預けることもできない。

通院も、薬も、排尿の介助も、

一人ではどうにもならなかった。


仕事を続けることと、

寅次郎を守ること。

どちらかを選ばなければならない現実が、

目の前に突きつけられた。


勇気を出して、

社長との同行をキャンセルした。


「申し訳ありません。家庭の事情で。」


電話の向こうで返ってきた言葉は短く、

静かだった。

けれど、その静けさがかえって心に刺さった。


自分がいないあいだ、

どれだけの負担が妻にかかるかを思うと、

会社の予定など考えられなかった。


在宅勤務を選び、

どうにか仕事と介護を両立しようとした。

ノートパソコンのキーボードを打つ手の横で、

寅次郎の呼吸がゆっくりと響いていた。


それが、

生きている証であり、

心の支えでもあった。


けれど、

胸の奥ではいつも葛藤があった。


社会の中の自分と、

寅次郎と向き合う自分。

どちらも捨てられないまま、

時間だけが過ぎていった。


それでも、

あの日社長との同行を断った自分を、

今は責めていない。


それが、

“支える”という選択だったからだ。


介護とは、

命を守るというよりも、

命に寄り添い続けることだ。


仕事を失っても、社会から離れても、この子の呼吸を感じることのほうが、

何倍も確かな現実だった。


毛のなくなったお尻の温もりが、そのすべてを教えてくれた。


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