第二十九章 下半身麻痺との闘い
季節は、冬へと向かっていた。
小春日和の穏やかさが過ぎ、
空気に冷たさが混じるようになったころ、
寅次郎の体は、ゆっくりと限界を見せはじめた。
後ろ脚が、動かなくなった。
まるで自分の脚ではないように、
力が入らない。
それでも、寅次郎は諦めなかった。
後ろ脚を前方に伸ばし、
前脚だけで体をずるずると動かした。
そのたびに、おしりが床を擦り、
子猿のように真っ赤に爛れていった。
見ていられなかった。
声をかけても、寅次郎は振り返らない。
ただ、前へ進もうとしていた。
⸻
おしっこが出なくなった。
膀胱に手を添えて、そっと押し出す。
それが日課になった。
時にはうまく出ず、何度もやり直す。
寅次郎は少し眉をひそめたが、
じっと耐えていた。
オムツをつけるようになったのも、この頃だった。
抵抗するかと思いきや、
意外にもおとなしく受け入れた。
夜になると、徘徊が始まる。
眠れないのだろう。
廊下を前脚でゆっくり進み、
壁にぶつかっては向きを変える。
カタカタという音が、
静まり返った家に響いた。
気づけば、
うんちが漏れて床を汚していた。
深夜のオムツ交換と清掃。
眠気よりも、胸の奥の切なさが勝った。
雑巾を握る手が震える。
泣けてくる。
そして時には、
辛くあたりそうになる自分がいた。
我慢していた言葉が、思わず口をついた。
「おいおい、何時だと思ってんだよ!」
その声に、寅次郎がこちらを見た。
あの“あほな面”で。
舌の先が少し出て、
まんまるの目をして、
まるで「知らねぇよ」とでも言いたげな顔をしていた。
その瞬間、力が抜けた。
怒りも悲しみも、全部どうでもよくなった。
泣き笑いのような息がもれた。
どんなに苦しくても、
どんなに痛みがあっても、
寅次郎は、寅次郎のままだった。
その“あほづら”が、
この上ない救いだった。
看病は、闘いというより、
終わりのない試練だった。
それでも、
あの夜の「おいおい、何時だよ!」があったから、
私はまだ人間でいられた。
寅次郎のあほ面が、
世界のすべての悲しみを
ほんの一瞬だけ、やわらげてくれた。
そしてまた、
長い夜がはじまる。




