表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
33/41

第二十九章 下半身麻痺との闘い

季節は、冬へと向かっていた。

小春日和の穏やかさが過ぎ、

空気に冷たさが混じるようになったころ、

寅次郎の体は、ゆっくりと限界を見せはじめた。


後ろ脚が、動かなくなった。

まるで自分の脚ではないように、

力が入らない。


それでも、寅次郎は諦めなかった。

後ろ脚を前方に伸ばし、

前脚だけで体をずるずると動かした。

そのたびに、おしりが床を擦り、

子猿のように真っ赤に爛れていった。


見ていられなかった。

声をかけても、寅次郎は振り返らない。

ただ、前へ進もうとしていた。



おしっこが出なくなった。

膀胱に手を添えて、そっと押し出す。

それが日課になった。

時にはうまく出ず、何度もやり直す。

寅次郎は少し眉をひそめたが、

じっと耐えていた。


オムツをつけるようになったのも、この頃だった。

抵抗するかと思いきや、

意外にもおとなしく受け入れた。


夜になると、徘徊が始まる。

眠れないのだろう。

廊下を前脚でゆっくり進み、

壁にぶつかっては向きを変える。

カタカタという音が、

静まり返った家に響いた。


気づけば、

うんちが漏れて床を汚していた。

深夜のオムツ交換と清掃。

眠気よりも、胸の奥の切なさが勝った。


雑巾を握る手が震える。

泣けてくる。


そして時には、

辛くあたりそうになる自分がいた。

我慢していた言葉が、思わず口をついた。


「おいおい、何時だと思ってんだよ!」


その声に、寅次郎がこちらを見た。

あの“あほな面”で。

舌の先が少し出て、

まんまるの目をして、

まるで「知らねぇよ」とでも言いたげな顔をしていた。


その瞬間、力が抜けた。

怒りも悲しみも、全部どうでもよくなった。

泣き笑いのような息がもれた。


どんなに苦しくても、

どんなに痛みがあっても、

寅次郎は、寅次郎のままだった。


その“あほづら”が、

この上ない救いだった。


看病は、闘いというより、

終わりのない試練だった。

それでも、

あの夜の「おいおい、何時だよ!」があったから、

私はまだ人間でいられた。


寅次郎のあほ面が、

世界のすべての悲しみを

ほんの一瞬だけ、やわらげてくれた。


そしてまた、

長い夜がはじまる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ