第二十五章 記憶 ― あの日の光
診察に行く時、
ふと、あの日のことを思い出した。
――大阪転勤が決まった年の春。
新しい住まいを探すために、
私たちは数日間、関西へ出向くことになった。
その間、寅次郎をペットホテルに預けるしかなかった。
ケージに入るのを嫌がり、
私の腕に体を寄せてきた。
「すぐ迎えに行くからな。」
そう声をかけると、
寅次郎は一度だけ振り返った。
スタッフが優しく笑って言った。
「大丈夫ですよ、すぐ慣れますから。」
けれど、ドアが閉まる直前まで、
寅次郎は私を見ていた。
あの視線が、今も胸に焼きついている。
あの時も、
“預ける”という行為が
こんなに辛いとは思わなかった。
そして今、
また同じ感情を抱いていた。
違うのは、
今度は“命を預ける”ということ。
高度医療センターの建物が見えたとき、
胸の奥がざわめいた。
妻は無言のまま、
小さく頷いた。
受付を済ませ、
順番を待つ間、
寅次郎は静かに座っていた。
他の犬たちが落ち着かない中、
彼だけが穏やかな顔をしていた。
その穏やかさが、
痛いほどに胸に刺さった。
診察台の上で、
寅次郎はじっとしていた。
先生の手が触れても、逃げなかった。
小さな体を精一杯に踏ん張って、
見えない何かと戦っていた。
その姿に、
言葉にならない誇りのようなものを感じた。
「頑張ろうな、寅。」
そう声をかけたが、
声がうまく出なかった。
組織検査が終わったのは、
夕方近くになってからだった。
診察室の扉が開き、
麻酔がまだ少し残る寅次郎が
看護師さんの腕に抱かれて戻ってきた。
目が潤んでいた。
涙目のように見えた。
彼の腰のあたりには、
小さな傷ができていた。
白い毛の間から、
赤くにじむその痕が見えた。
検査という名の闘いを、
この小さな体で受け止めた証だった。
「ご苦労さま、寅。」
「よく頑張ったな。」
声をかけると、
寅次郎は小さく尻尾を動かした。
それだけで、
涙が溢れた。
医師の説明を聞きながら、
私はその表情を見ていた。
「詳細は検査の結果を待って判断しましょう。」
穏やかな口調。
しかし、
その目の奥の影で、すべてを悟った。
十中八九、間違いない。
そう思った瞬間、
視界が滲んだ。
まだ何も決まっていない。
けれど、
心の中ではもう結果を受け取っていた。
帰りの車の中で、
寅次郎は目を閉じて眠っていた。
麻酔の余韻が残る体を、
妻がそっと毛布で包んだ。
「1週間、長いね。」
妻が小さく言った。
「うん……。」
それだけ言って、
私たちは黙った。
夜、
リビングの灯りを落とした。
寅次郎は毛布の上で静かに眠っていた。
腰のあたりの傷が、
淡い灯りの中で赤く光って見えた。
その小さな痕が、
この日のすべてを語っていた。
何もできなかった。
何を信じていいのかもわからなかった。
まだ何も決まっていないのに、
心の奥では、
すべてが終わりに向かっている気がした。
涙がまた滲んだ。
拭う気にもなれなかった。
ただ――
途方に暮れた。
それだけだった。




