第二十三章 異変
異変
残暑が長引く秋のはじまり。
陽射しはまだ強く、
夕方になってもアスファルトがじんわりと熱を持っていた。
寅次郎の様子が変わった。
食欲が落ち、散歩の足取りが重い。
呼んでも動かず、
寝てばかりいる時間が増えた。
妻が言った。
「やっぱりおかしい。
夏バテなんかじゃないよ。」
私は笑って答えた。
「でも熱もないし、きっと疲れだよ。」
そう言いながら、
心の奥にかすかな不安が残った。
病院に向かった。
診察台の上で、寅次郎は静かにしていた。
先生が聴診器をあて、
関節をゆっくりと触る。
「足の動きは悪くないね。
でも少し元気が落ちてる。
念のためレントゲンを撮ってみましょう。」
機械の音が部屋に響いた。
モニターに白と灰の世界が浮かぶ。
骨、内臓、影――。
先生が言う。
「特に異常はないですね。
少し炎症があるかもしれません。
ステロイドを打っておきましょう。」
私は頷いた。
妻も頷いた。
その画面を、私たちは軽く一瞥しただけだった。
けれど――その時、
寅次郎だけが、
じっとそのモニターを見つめていた。
黒い影のようなものが、
ほんの一瞬、
彼の瞳に映っていた。
誰もそれに気づかなかった。
気づいていたのは、
寅次郎だけだった。
ステロイドの効果は驚くほどだった。
その夜、寅次郎は突然元気を取り戻した。
皿のごはんをすぐに平らげ、
尻尾を高く上げて歩いた。
「よかったね。」
妻が笑った。
私も笑った。
――けれど、どこかで怖かった。
⸻
翌日から、
寅次郎は水を異常なほど飲み始めた。
お皿に顔を入れたまま、
何度も飲む。
そして、夜。
床におしっこの跡があった。
寝たまま漏らしていた。
脚の震えも消えた。
食欲も増した。
まるで何事もなかったように見えた。
「治ったのかな。」
私は呟いた。
妻は静かに言った。
「本当に?」
私は答えられなかった。
数日後。
薬をやめると、
再び足が重くなった。
ごはんを残し、
じっと座り込む時間が増えた。
「戻っちゃったね。」
妻が言った。
私は何も言えず、
ただ寅次郎の顔を見つめた。
その瞳の奥には、
静かで深い光があった。
――あの時のレントゲン。
私も、妻も、先生も、
何も見ていなかった。
あの影の意味を、
知っていたのは、
寅次郎だけだった。
「このままじゃダメだ。」
私はつぶやいた。
治療費のことよりも、心の奥に沈む違和感の方が大きかった。
信じきれない。
もう、誰かに委ねることはできない。
「セカンドオピニオンを受けよう。」
私がそう言うと、妻は迷わず頷いた。
寅次郎は静かに目を閉じていた。まるで、その決断を知っていたかのように。
外では風が吹いていた。どこからか金木犀の香りが漂っていた。
秋が来ようとしていた。そして、見えない影が、確かに動き始めていた。




