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第二十二章 見えない不安と胸騒ぎ

残暑の厳しい季節だった。

蝉の声が遠くでまだ鳴き、

夕暮れになると熱気と秋の気配が入り混じった。


その頃から、

寅次郎の様子に少し変化があった。


朝の散歩で、歩き出しにわずかな遅れ。

左の後ろ脚がほんの一瞬だけ重そうに見えた。

そして何より、食欲が落ちてきた。


好きなフードにも勢いがなく、

おやつを差し出しても首を傾げる。

涼しい場所を見つけては横になる時間が増えた。


妻が言った。

「ちょっと変じゃない? 足も、ごはんも。」


私は軽く笑って答えた。

「この暑さだからな。夏バテだよ。」


そう言いながらも、

胸の奥で小さなざらつきが取れなかった。



数日後。

寅次郎の様子は相変わらずだった。

妻が静かに言った。


「一度、先生に診てもらおう。」


私はうなずき、

かかりつけの動物病院へ向かった。


五年以上お世話になっている先生。

戻ってきた頃からずっと見てくれている。

寅次郎にとっては馴染み深い場所――

それでも、好きではない。


名前を呼ばれると、

寅次郎は動かなくなった。

前足を突っ張り、リードが軽く震える。


「寅、行くぞ。」

声をかけても、わずかに顔をそらす。


その姿に、

“戦う”というより、“譲らない”という気配があった。


診察室に入ると、

先生が笑顔で迎えた。


「お、寅さん。また来たね。」


その声にも、寅次郎は反応しなかった。

目を合わせず、

ゆっくりと部屋の空気を嗅ぐようにして歩いた。


「今日もマイペースだね。」

看護師さんが笑う。

先生も苦笑して言った。

「ほんと、動じないなぁ。」


診察台に乗せても、寅次郎は落ち着いていた。

触診しても、唸らない。

抵抗しない。

ただ、静かに遠くを見ている。


その表情は、

まるで何かを見透かしているようだった。


先生が言う。

「足の動き、悪くないですね。

 でもちょっと筋肉が落ちてるかも。 レントゲン、撮っておきましょう。」


妻が尋ねた。

「夏バテでしょうか?」


「かもしれませんね。」

先生は穏やかに答えた。


その声の奥に、

ほんの一瞬だけ探るような沈黙があった。


診察が終わると、

寅次郎はすぐに出口の方を向いた。

まるで「もう用は済んだ」と言うように。

先生も笑いながら言った。


「寅さんは堂々としてるね。

 ほんと、強いなあ。」


けれど私は心の中で思った。


――強いとか、そういうことじゃない。

 勝ち負けではない。

 この先生では、きっと見つけられない。


何かが、

ゆっくりと動き始めている気がした。


帰り道。

助手席で眠る寅次郎の胸が、

ゆっくりと上下していた。


夕焼けの空に蝉の声が混ざる。

その音が、夏の終わりを告げていた。


「早く涼しくなるといいね。」

妻が言った。


「うん。」と答えたあと、

私は小さく息を吐いた。


窓の外の空は赤く、遠くの雲だけが秋色に染まり始めていた。


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