回想 岡本桟橋 ― 海と時間
冬の海は、音が遠い。
風が冷たく、空の青が薄い。
波打ち際の白だけが、
時間の境界をかろうじて示していた。
私たちは、寅次郎を連れて
岡本桟橋へ向かった。
テレビで見た「ドキュメント72時間」の風景が、
頭の片隅に残っていた。
いつか行ってみたいと思っていた場所。
そしてその「いつか」が、
この日やってきた。
桟橋の入り口に立つと、
潮の匂いが風に乗ってきた。
真冬の陽射しは淡く、
空の端でかすかに滲んでいた。
寅次郎は海の方を見つめ、
鼻を高く上げて風を嗅いだ。
その毛並みが冷たい光を反射して、
まるで水面の光と同化していた。
妻が小さな声で言った。
「静かだね。」
「うん。音が吸い込まれていくみたいだ。」
海と空の境目はぼんやりしていて、
遠くの船も輪郭をなくしていた。
寅次郎は桟橋の先端まで歩き、
そこで立ち止まった。
風が正面から吹きつける。
彼は目を細め、
まるで何かを思い出すように
海の向こうをじっと見つめていた。
私はその後ろ姿を見つめながら、言葉を失った。
この子は、
何かを知っているのだろうか。私たちがまだ言葉にできない何かを。
妻が隣で囁いた。
「寅、ここ、好きみたい。」
「そうだな。」
私の声は風に溶けて消えた。
波の音が、
いつのまにか時計の音のように聞こえていた。
秒針ではなく、
もっとゆっくりと、
命の呼吸に似たリズムで。
しばらくして、
寅次郎が振り返った。
風が一瞬だけ止み、
その目がまっすぐ私を見た。
その瞳の奥に、
海の色が映っていた。
深くて、静かで、
どこまでも澄んだ冬の青だった。
私は思った。
――時間は、海のようなものだ。
波が寄せては返すたびに、
私たちは生きていることを確かめる。
帰り道、
西の空が淡い金色に染まり始めた。
冷たい風の中、
寅次郎の歩幅は少しゆっくりになった。
妻が言った。
「寅、今日は海の先生だね。」
私は笑って頷いた。
「そうだな。
風の先生の次は、海の先生だ。」
寅次郎は前を向いたまま歩き続けた。
足跡が白い砂の上に残り、
波が寄せてきて、
その形をそっと消していった。




