回想 帝釈天 ― 名の祈り
回想 帝釈天 ― 名の祈り
金八ロードをあとにして、車はゆるやかに柴又へ向かった。
5月の風を受けながら走る帰り道は、どこか満ち足りていて、窓を下ろすと川の匂いと草の香りが混ざり合った。
「せっかくだし、帝釈天に寄ろうか」
妻の言葉で、寄り道が決まった。金八の帰りにふらりと立ち寄る――そんなささやかな流れが、旅の余韻をいっそう豊かにする。
参道に入ると、初夏の陽が軒先を照らしていた。煎餅屋の煙と、軒ののれんが風に揺れる。人出はほどほどで、石畳を歩く足音が軽やかに響く。
寅次郎は石畳の上を落ち着いて歩き、店先の人々が声をかけるたびに、尻尾をひと振りして通り過ぎた。誰かが「かわいいね」と言うと、いつものように答える。
「名前は?」と尋ねられるたび、私が「寅次郎です」と答える。
その瞬間、空気がふっと和らぐのを感じるのだ。言葉の音が、通りの人たちの顔をぱっとほころばせる。映画の寅さんを思い出す人もいるだろうが、ここで呼ばれる「寅次郎」はただの笑顔を誘う名であり、出会いの合図でもあった。
本堂の前では、私たちは静かに手を合わせた。
――この名とこの子とをここで確かめられることに、ありがとう、と。
寅次郎は本堂を見上げ、少しだけ胸をそらすようにして立っていた。彼の目には、どこか満ち足りた光が宿っている。呼びかけられるたびに和やかになるこの名が、いつまでも人のそばで優しく鳴り続けますようにと、私はそっと祈った。
参道を戻るとき、夕陽の光が軒先を長く伸ばしていた。寅次郎は前を向いて歩き、私はその後ろ姿を見ながら、心のどこかに温かさが残るのを感じていた。
――名前は、人をつなぐ小さな祈りだ。




