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第十九章 寅次郎、失敗しないんで!

寅次郎、失敗しないんで!


梅雨の終わりごろだった。

重たい雲の切れ間から差す光が、

湿った部屋の空気を少しだけ押し上げていた。


録画してあった『ドクターX』を流しながら、

ぼんやりと画面を眺めていた。

無菌の手術室、

光を反射するメス、

患者の体に流れる静かな緊張。


その場面を見ているうちに、

みぞおちのあたりがじくじくと痛み始めた。

最初はたいしたことないと思った。

いつもの腹痛だろう、と。


しかし、痛みは次第に強くなっていく。

テレビの中で医師が「メス!」と叫ぶたびに、

自分の腹の奥も同じようにうずいた。

光と痛みが同じリズムで脈を打ち、

映像と現実の境界が曖昧になっていった。

「寅、行こっか。」


妻の声がした。

リードの金具が小さく鳴る。

寅次郎は軽く尻尾を振り、玄関へ向かった。


私は腹を押さえながら「行ってきな」と言った。

そのときすでに、

立っていることさえ少し辛くなっていた。


玄関のドアが閉まる音。

遠ざかる足音。

部屋に戻る静けさ。

痛みだけが、確かな存在として残った。


三十分ほどして、

妻が慌てた様子で戻ってきた。


「あなた、それ……盲腸かもしれないよ!」


息を切らせながら、冷やしたタオルを手にしていた。

散歩の途中で“ポテチ”の飼い主に会ったという。

彼女は看護師で、

妻が話した症状を聞いてすぐにそう言ったらしい。


「まさか大人になって盲腸?」


そう笑おうとしたが、

痛みはもう笑いを許さなかった。

腹の奥がつかまれるように締めつけられ、

息を吸うたびに視界が遠ざかる。


「救急車、呼ぼう。」


妻の言葉にうなずいた。

電話の受話器を握る手が震えた。

オペレーターの声が遠くから聞こえてくる。


「ご住所をお願いします。」


自分の声が別人のように聞こえた。


サイレンの音が近づいてくる。

ストレッチャーの上に体を預けた瞬間、

玄関の奥に寅次郎がいた。

心配そうでも、騒ぐでもなく、

ただ静かにこちらを見ていた。


そのまなざしは、

どこか「行ってこい」と言っているようだった。


白い天井が流れる。

ライトが目の前を通り過ぎるたび、

現実が少しずつ遠のいていく。


「虫垂炎ですね。すぐに手術します。」


マスク越しの医師の声。

時計は深夜を回っていた。

ドアが閉まる音だけが、

やけに大きく響いた。


意識が薄れていく。

その奥で、

テレビの中の「私、失敗しないので」という声が、

かすかにこだました。

目を覚ますと朝だった。

白いカーテンがゆっくりと揺れている。

医師がベッドの脇に立ち、

穏やかな声で言った。


「腹膜炎になる手前でした。 あと少し遅れていたら危なかったですね。」


その言葉の意味を噛みしめるうちに、

昨夜の光景が一つずつ戻ってくる。

妻が駆け寄る姿、

寅次郎の視線、

そしてポテチの飼い主の一言。


どれか一つでも欠けていたら、

今ここにはいなかった。


数日後、退院の朝。

病院の前で待っていた寅次郎が、

静かにこちらを見上げた。


リードが軽く揺れる音がした。

その音に、

あの日のサイレンが重なって聞こえた。


私はしゃがみ込み、

寅次郎の頭を撫でた。


「おまえ、失敗しなかったな。」


寅次郎は小さく鼻を鳴らした。

その音が、

何より確かな“生”の証のように思えた。

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