第十一章 不整脈
あれは、とても暑い夏の出来事だった。
大阪での生活にも慣れ、仕事の車で阪神高速三田線を北へ走っていた。
陽炎が揺れ、遠くの景色がかすんで見えた午後のことだ。
ラジオの音が遠のき、胸の奥で“どくん”と不規則な跳ね方をした。
次の瞬間、景色が止まった。
車窓の外の世界が、まるで一枚の絵のように静止して見えた。
ハンドルの重さも、アクセルの反応も消えた。
腕も脚も、自分のものではないように感じた。
音も風もなく、ただ心臓の音だけが車内に響いていた。
――死ぬかもしれない。
その言葉が、他人の声のように脳裏をよぎった。
震える指でハザードを点け、路肩に寄せ、胸を押さえながら息を整えようとした。
PSVT――発作性上室性頻拍。
後にそう診断されたが、原因は分からなかった。
けれど、俺には思い当たる節があった。
それは、抜擢人事のあとに訪れた降格の疲れだと思っている。
重責を背負い、結果を出せず、信頼を失い、自分を責め続けたあの日々。
心は折れていたのに、身体だけが前へ進もうとしていた。
その歪みが、ある夏の日に胸の奥で爆ぜたのだろう。
それ以来、ハンドルを握ることはなくなった。
エンジンをかけるだけで、止まった景色が蘇る。
寅次郎を連れて出かけるときも、妻が運転を引き受けてくれた。
俺は寅次郎のクレートを後部座席に載せ、その隣に腰を下ろすようになった。
信号待ちのたびに、寅がこちらを見上げる。
その瞳の奥には、不思議な静けさがあった。
まるで、「もう闘わなくていい」と言われているようだった。
窓の外を、寅と並んで眺める。
以前は見逃していた小さな街路樹の影や、歩道を渡る子どもの声。
そんな景色が、胸の中にゆっくりと沁み込んでいった。
アクセルを踏めなくなっても、道は続いている。
その道の先には、いつも寅がいた。




