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第十章 記憶 ― はじめての別れ

大阪に来て、

いくつもの季節が過ぎた。


休日の午後、

リビングのソファに座りながら、

ふと、あの春のことを思い出すことがある。

2015年の3月。

転勤を目前に控え、

私たちは大阪で暮らす家を探していた。


その数日間、

寅次郎をペットホテルに預けた。

後にも先にも、

この子を人に預けたのはあのときだけだ。


段ボールが積まれ、

部屋が少しずつ「出発の色」に変わっていく。

寅次郎はその雰囲気を敏感に感じ取っていた。

キャリーバッグを出すと、

いつもなら尻尾を振るのに、

その日だけは玄関の前でじっと座り込んでいた。


「すぐ帰るからな。」

そう声をかけた。

けれどその言葉が、自分に言い聞かせるように響いた。


ホテルの受付で名前を書き、

奥に連れて行かれる寅次郎が

何度も振り返った。

ガラスの向こうで、小さく鼻を鳴らした。


――あのとき見送った背中を、

  私は今もはっきり覚えている。


あの日の夜、

大阪のホテルの部屋で

窓の外を見ていた。

街の明かりが滲み、

見慣れぬ夜空に薄い月が浮かんでいた。


静かな部屋の中で、

スマートフォンを開くと、

ホテルから届いたメールがあった。

「寅ちゃん、とても落ち着いています。」

写真には、

毛布に顔を埋めて眠る寅次郎の姿が写っていた。


その小さな寝顔を見つめながら、

胸の奥が少し痛んだ。

ほんの数日なのに、

世界から温度が抜けたようだった。


そして帰宅した日。

玄関を開けると、

寅次郎は飛び出すように駆け寄ってきた。

鼻を鳴らし、

体をすり寄せ、

まるで再会を確かめるように私の足元を回った。


妻が笑った。

「怒ってないね。」

「うん。ちゃんと待っとったんやな。」


その夜、寅次郎は私の足元でぐっすり眠った。

その寝息を聞きながら、私は心の中で誓った。


――もう二度と、この子を独りにしない。

けれど不思議なことに、

今思い返すと、

あの短い別れの時間は

どこかで“予兆”だったような気がする。


十年後、

白い病院の廊下で

また私は同じようにその背中を見送ることになる。

同じように、

扉の向こうで一人きりになった寅次郎を、

ただ信じて待つしかなかった。


あの日とこの日が、

一本の線でつながるように思えるのは、

私の記憶の中で、

寅次郎がずっと“信じる力”そのものだったからだ。


春の午後、

大阪の風に少し花の匂いが混じると、

私はいつも、

あのときのキャリーバッグの重さを思い出す。


それは、

別れの重さではなく、

“信じて預けた時間”の重さだったのかもしれない。

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