千五百八十年 六月上旬
兵庫津を発ち、一路尾張へと向かう旅客船がやや荒れた海面を跳ねるように進んでいた。
荷物番を任されている五代は、無意識に波の音と風の向きを感じとり、指が勝手に日和の算定をせんと疼き出す。
脳内で処理できる限界を超え、それを書付けようとした瞬間に五代は我に返った。
凄惨な仕置きの末に、海へと叩き込まれた上士の姿と、その場で主たる樺山から告げられた冷酷な声が脳裏を過る。
首筋に刃を押しあてられたかのような恐怖を覚え、背筋に氷柱を突きこまれたかのように体が硬直した。
自らが良かれと思った算定は、己自身と血を分けた家族すらも害する毒となり得る。
五代は指が白くなるほどに硬く拳を握りしめ、知の探究心に無理やり蓋をした。
一際大きく船が跳ねて、五代は風向きが変わったことに気が付いた。
反射的に空を見上げそうになった視線を意思の力で封じ込める。
五代の知的好奇心が運ぶであろう最悪の未来が、彼を身動きできなくしてしまう。
それは五代を含む家族もろともに斬首され、獄門台で朽ちるという凄惨な光景であり、僅かな過失で現実のものとなる可能性があった。
忌まわしい想像を追い払うよう頭を振った。歯を食いしばりながら、自らに暗示をかけるかのように呟く。
「考えるな。俺はただの道具なんだ……」
薩摩一行を載せた船が尾張へと到着した。
港内には既に静子が手配した案内人が待機しており、彼は人好きのする笑みを浮かべて挨拶する。
「遠路遥々、ようこそ尾張へ参られました。三位様の御下知にて案内役を務めます、義郎にございます。短き間ながら、お供仕ります」
伊集院は家名すら告げない義郎の口上に面食らったが、黙って従い宿へと向かう。
案内された宿は誰の目にも明らかな高級店であり、上士には床の間を備えた広い座敷が割り当てられ、郷士にもやや見劣りするものの清潔な相部屋が宛がわれた。
郷士の待遇が良すぎることに上士たちが眉を顰めるが、義郎は感情の読めない能面のような笑みを浮かべるのみである。
五代が部屋の隅に荷物を置き、恐る恐る高級そうな座椅子に腰を下ろした。
磨き上げられた座卓の天板を眺め、居心地悪そうにしていると義郎が部屋を訪ねてくる。
「ここ尾張について、ご説明いたします」
五代は背筋を伸ばして居住まいを正すと、彼の一言一句を聞き逃すまいと傾聴した。
「最後に、こちらをお納めください」
義郎から差し出されたのは、腰下げの巾着袋である。
地味な色合いながらも、精緻な刺繍が施されたそれは一目で高級品であると知れた。
同室の郷士たちも一様に感嘆の息を漏らし、五代は皆を代表してそれらを受け取る。
義郎は己の腰に下げていた同様の巾着袋を開いて、中からいくつかの貨幣を取り出しながら説明を続けた。
「こちらが尾張で通用する貨幣となります。これら以外の使用は出来ませぬゆえ、ゆめゆめお間違いなきようご留意ください。またこの袋自体、皆様が三位様の客分であると示す証となります。決して紛失なされぬよう重ねてお願いします」
各自に注意事項を伝えると、義郎は部屋を辞した。
五代は己の巾着から貨幣を取り出すと、同じ額面の物を重ね、硬貨の縁を指でなぞりながら、すり合わせる。
薩摩でも行っていた鐚銭を扱う折の手癖であり、だからこそ彼の指先は鋭敏にその違いを感じ取ってしまった。
完璧に重なっており、僅かのはみ出しすらない。
前後を入れ替えてみても結果は同じであり、続いて厚みを調べるために平らな座卓に並べて指でなぞった。
五代の指先は縁が意図的に盛り上げられていることを伝えるが、額面が刻印された面の厚みが全て同じであることも同時に伝えていた。
硬貨とは流通する過程で摩耗したり、損傷したりするものだ。
これを防ぐには定期的に損耗した硬貨を回収し、新しいものと取り換え続けるしかない。
薩摩の常識では計り知れない技術力と、莫大な費用を掛けてまで銭の質を維持し続ける理由とは何だろうという疑問が沸き上がる。
殺したはずの知的好奇心が強制的に励起され、思わず言葉が口から漏れた。
「完璧に同じ大きさ、同じ目方の銭ならば、贋金を駆逐できるのか……」
五代は思わず総毛立つ。
薩摩では否定された算定が、尾張に於いては取引の要である銭にまで宿っていることに気が付き、彼は己の手が震えるのを止められなかった。
歓喜と恐れから呼吸が荒くなるが、それでも物事の理を知りたいと逸る五代の心は止められない。
しかし、そこに冷や水を浴びせるかのように、郷士仲間から声が届いた。
「五代! 樺山様が外でお待ちである。急ぎ参れ!」
同胞の言葉に五代は飛び上がり、裸足のまま外へと飛び出した。
部屋の外には樺山が一人で立っており、五代は目を合わせぬよう急いで平伏する。
それを冷たく見下ろしていた樺山は、小さく息を吐いた。
「郷士たる者、いついかなる呼び出しにも応じられるよう備えておれ」
「はっ! 申し訳ございません」
言外に供を命じられたことを察した五代は、顔を伏せたまま部屋へと駆け戻り、外出の支度を整えると草履を履いて外に出る。
「忘れるな、郷士の失態は上士の不名誉となる」
「ははっ!」
五代の返事に樺山は嘆息すると、彼に背を向けて歩き出す。
樺山の三歩後ろを追いかけるように五代が続く。
樺山の目的は、街の視察であった。
「商いは武士の役目ではない」
五代は樺山から投げ渡された巾着袋を慌てて受け取り、懐に仕舞う。
金銭の支払いが必要な場面になれば、自分が勘定をせよと命じられたのだと五代は理解した。
明言された訳ではないが、まずは五代の貨幣を用い、それでも足りなければ樺山のもので賄うよう意識する。
短い時間ではあったが、貨幣の価値については頭に叩き込んできており、今度こそお役に立って見せると五代は意気込んでいた。
街へと至った五代は周囲へせわしなく視線を送る。
その目に飛び込んでくるあらゆるものが薩摩で目にするそれとは異なり、より洗練された理によって成り立っていた。
まるで碁盤の目を切ったがごとく、縦横にまっすぐ伸びる通りと、いささかの乱れもなく整然と軒を連ねる家々の佇まいには、ただ目を見張るほかない。
中でも目を惹くのが店に並べられた工芸品の画一性だった。
恐らく木や竹を加工して作られた製品なのだろうが、その全てが全く同じに見えるのだ。
どれほど凄腕の職人であろうと、材料に違いがある以上は品質にばらつきが出て当然であり、その差異が味わいであるとも言える。
良く見れば木目などに違いはあるものの、同じ商品として一括りにされているものに於いてはどれを選んでも品質が保証されている。
商品に当たり外れがないということが選別の手間を省き、購買を促進させていた。
薩摩にはない理が土台となり、整然とした効率性が商売の活気を生み出していると五代には思える。
(新鮮な農作物すら大量に売られている……この絡繰りを持ち帰れるならば薩摩とて潤うやもしれぬ)
店先にはみずみずしい農作物が並べられており、その目方による量り売りがなされているようだ。
そして扱われている農作物は薩摩でも見かけるものから、一見しただけでは食べ方すら分からないものまで多種多様な品が山を作っており、皆が次々と手に取っている。
最も五代を驚愕させたのは米までもが売られていることであった。
薩摩の常識であれば米とは年貢として納めるものであり、僅かに手元に残った米も商人に売って、他の品物と交換する言わば高額紙幣のような役割を果たすものである。
しかも、五代の知っている米とは赤米や黒米であり、脱穀され精米された白米が売買されるなど想像の埒外であった。
そしてその価格にも戦慄を禁じえない。
ここは尾張の中でも一際都市部であり、農業に従事していない人々が日常の糧として米を買い求めることは、まだ理解できた。
驚くべきことに、ここ尾張に於いては白米ですらも贅沢品とは言えない価格で取引されており、見覚えのある雑穀等と比べれば随分と割高であるとは言え、五代が支給された資金でも相当の量が買い込めるほどであったのだ。
つまり尾張の町民たちは、五代から見れば輝かんほどの白米を常食しているという証拠に他ならなかった。
(これほどの米を庶民が気軽に売買する程に作り出せる御業が手に入るならば……父母や弟妹たちに腹一杯飯を食わせてやることができる)
改めて尾張に滞在できるという僥倖の内に、少しでも何かを学び取ろうと五代は決意した。
そんな折に、樺山と五代は警邏隊の一行とすれ違う。
義郎から街での困りごとがあれば頼るように言い含められていたことを思い出し、どのような風貌であったか確認しようと振り向こうとした。
「何度言わせるのだ」
唐突に投げつけられた樺山の声に五代の視線は引き戻される。
郷士の視線は常に上士の背に据えられていなければならぬと繰り返し告げられていた。
樺山の声に熱はこもっていなかったが、それでも不興を買ってはならぬと決死の覚悟で樺山の背に視線を固定する。
その後も樺山の後ろに続く形で視察は続くが、幾度も興味を惹かれて視線を動かしそうになるのを意思の力で強引に引き戻した。
頭では理解していても、五代の心はこの街に息づく洗練された理に魅了されてしまう。
そんな五代とは対照的に樺山は終始、無言であった。
何処かの店に立ち寄ることもなく、ただひたすらに街を歩き続けている。
五代からは彼の表情を窺うことなど許されていないため、黙々と付き従うのみだ。
突如として樺山の視察は終わりを告げた。
彼は突然立ち止まると、一言も告げずに元来た道を引き返し始める。
彼が振り返る瞬間に五代は顔を伏せたが、それでも垣間見えた樺山の顔色がひどく悪い事に気が付いた。
(若様の御顔の色が優れぬ……これほどまでに整然と整備され尽くした街並みに、ご気分を害するものなどあっただろうか?)
五代は視察を振り返って訝しむ。
尾張の街は薩摩のそれとは比べ物にならない程に洗練されていた。
圧倒され、憧憬を抱きこそすれ、気分を害するような出来事などあろうか?
不意に視界の端を動くものが通り過ぎる。
五代のできる範囲で確認すると、それは幼子を連れた母親であり、また棒手振の行商人が歩み去る姿であった。
そこで五代はようやく腹落ちする。
(薩摩では上士に道を譲らぬまま通り過ぎるなど言語道断。そもそも庶民は道の端を歩くものゆえ、若様は勝手が違うことにご気分を害されたのだ)
昨今の薩摩に於いては、どれほど急ぎの要件であろうと、上士に対して道を譲らぬ暴挙は許されない。
道の中央を空けて端に避け、その上で深く平伏して上士が通り過ぎるのを待つ必要があった。
尾張のように老若男女身分を問わず、並んで歩くなど天地がひっくり返ろうともあり得ない出来事なのだ。
五代はこのような光景を見続けたがため、忍耐の限界を超えて樺山の気分を悪くしたと思い込む。
一方の樺山は五代を顧みることなく、一心に歩を進めていた。
それは何かから逃げているようでもあり、その歩調には焦燥感すら滲んでいるのが伺える。
それでも五代は伊集院が振るった暴力に触発された過去に委縮してしまい、樺山に声を掛けることが出来ずにいた。
奇しくも尾張の空は晴れ渡っていたが、二人の影が交わることはついぞなかった。
翌日は休息に充てられ、尾張に到着して三日目に薩摩一行は義郎の案内で学術院へと到着した。
重厚な門構えに、見上げる程に高く聳える築地(泥土をつき固めた土塀のこと)は、学究の場として些か物々しく思える。
伊集院は内心の動揺を押し隠し、思わず浅くなっていた呼吸を意図的に長く吐いて整えると、一行を率いて学術院内へと案内された。
構内には幾つもの建物が並んでいるが、その全てが見たこともない様式の建築物であり、しかも三、四階建てはあろうかという高層建築であった。
伊集院たちの知る高層建築は、上層階に行くほどに敷地面積が小さくなる望楼型になるのが常識であり、総階型と呼ばれる同じ床面積を持つ構造を積み重ねる様式は異様に映る。
風変わりな直線で構成された見慣れぬ建物の一つに案内され、唯一、一階の正面だけが優美な曲線を描く唐破風の車寄として突き出していた。
恐らくは欅と思われる太い柱に支えられた庇を潜り、学舎内へと立ち入るとそこには平賀と鬼頭が一行の到着を迎えてくれる。
「よくぞ遠路、参着なされた。当学舎にて筆頭師範を務める平賀と申す。これより皆々の指導仕るゆえ、見知りおかれよ」
一見すると柔和な笑みを浮かべて平賀は歓迎を告げるが、よく見ると彼の目は笑っていないことに気付けるだろう。
次いで平賀は隣に控えていた鬼頭を指し示し、彼を紹介し始める。
「こちらは鬼頭師範。主に皆々を直接指導するのは、この鬼頭となる。予め申し伝えるが、当学舎に於いてはたとえ帝のご落胤であろうと、一介の徒として扱うことをゆめゆめ忘れぬよう、肝に銘じられよ」
「鬼頭と申します。以後、お見知りおきを」
鬼頭の挨拶を受け、伊集院たちも頭を下げて挨拶の口上を述べる。
しかし、発言するのは上士のみであり、五代たち郷士がその輪に加わることはない。
思わず鬼頭が口を挟みかけるが、それを平賀が身振りで制した。
「皆が共に学ぶ場をここでは『教室』と呼びます。まずはそちらに案内いたす。ついて参られよ」
平賀を先頭に彼らは教室へと誘導された。
鬼頭が教壇に立ち、平賀は教室の入り口付近の端に陣取って様子を見ている。
鬼頭は一つ咳払いをすると、伊集院たちに席に着くよう指示した。
薩摩の諸士は一歩足を踏み入れるなり、そこに広がる異質な光景に思わず息を呑んだ。
教室には、およそ戦国時代に似つかわしくない異質な調度品が据えられている。
横に五列、縦に六列――整然と並べられているのは、畳に座るための文机ではなかった。
顔が映る程に磨き上げられた天板を持つ、高床の机と腰掛け(椅子のこと)が番となって並んでいる。
各々が好きな座席に座るようにと言われたものの、彼らは明確な序列に従って前から順に席を埋めていく。
上士たちが席に着く一方、五代たち郷士らは板張りの床へと膝をついて座ろうとした。
「……全員が席に着きなさい。例外は許さぬ」
冷徹に、しかし、語気を強めて鬼頭が言い放つ。
平賀は上士と郷士たちの態度を見ても、特に何を言うでもなく、真意の読めない笑みを浮かべているのみであった。
ほんの一瞬だけ鬼頭が平賀へと目線を送るが、彼の表情を見て鬼頭はため息を吐く。
「鬼頭師範。恐れながら、奴らの席はそこで構いませぬ」
伊集院が嘲りの感情を隠そうともせず、そう言い放った。
薩摩に於いては、上士と郷士が同じ部屋で共に学ぶことすらあり得ない、置いてやっているだけでも温情であると言いたいのだろうと鬼頭は察する。
「ここが薩摩の地ならば、それが道理なのだろう。しかし、ここは尾張である。恐れ多くも上様の信任厚き三位様が創立された学術院の『法』は、学徒の間に身分による差をつけてはならぬと定められている。ここに差があるとすれば、それは教え導く者と、学び従う者という立場の差のみ。もう一度だけ言う、『全員』席に着きなさい」
鬼頭の言葉に伊集院が尚も言い募ろうとしたが、彼は言葉を重ねて伊集院の発言を許さない。
「これ以上、学び舎の規律に反駁するとあらば、学術院の秩序を乱す者として教室より叩き出す。それでも尚、従わぬ場合は学術院より追放し、二度と足を踏み入れられぬと心得よ」
学術院からの追放という言葉に対し、薩摩の看板を背負って留学している伊集院としては引き下がるしかなかった。
露骨に不愉快そうな表情を浮かべつつも、郷士たちに顎で教室の隅を指し示す。
教壇に向かって右側の前列から詰めていた上士に対し、対角線上の左後方から座るように命じたのだ。
五代達郷士は敏感に伊集院の意図を察し、極力上士の視界に入らぬよう、体を縮こまらせて席に着いた。
つまり上士と郷士は同じ教室の前列と後列に分かれて着座し、間の空席が二つの群れを隔てている状況となっている。
それでも伊集院たちは、郷士が上士と同じ目線を共有していること自体が気に入らぬと言わんばかりに、如何にも不愉快そうな表情を浮かべながら押し黙っていた。
それほど身分に拘るのかと、鬼頭はうんざりしつつも咳払いをする。
「まずは本学舎の決まり事や、今後の予定について口頭で伝える。今から冊子と筆記用具を配るゆえ、しっかりと覚え、必要ならば書付けなさい」
鬼頭は冊子の内容を解説しながら学術院の規則を説明した。
全てを詳細に網羅するとなると、到底一日では足りなくなるため、重要な項目のみを掻い摘んで彼らに伝える。
共に同じ空間で学ぶ上で必要となる基礎事項であるため、難しい話などなく、至極当たり前の内容ばかりなのだ。
講義中に私語をしてはならない、質問をする場合は挙手にて許可を求め、師範が許した場合のみとする。
身勝手な振る舞いをすると懲罰があるなどであった。
尾張の秩序に馴染んだ人間からすれば、今更説明されるまでもない当然の規律である。
しかし、未だに力あるものが正義となる戦国の法に馴染んだ者には窮屈に感じるのだろう。
「定期的に試験を実施するが、これは習熟度を測るものであり、成績上位者だから偉いというものではない。しかし、自分が集団の中でどの程度の位置に属しており、より上位を目指す動機付けとなるため敢えて順位を貼り出すものとする」
学術院では敢えて試験の結果を競い合わせている。
本来試験とは己の理解度を数値で測るものであるが、競い合うことで切磋琢磨が生じることは否めない。
同じ講義を受けてもその理解度合いに差が出るのは、過去に積み上げてきた土台の差もあるため避けえない。
その上で、己の立ち位置を把握し、より上を目指して学究の道を歩むことを歓迎するのが学術院の理念となる。
何故ならば勉強には正解があるが、学問という学究の道に歩みだせば、己が正解を見出す必要があるからだ。
ここが初等教育である静子の学校と決定的に違う個所なのだが、薩摩一行は初等教育を拒んで高等教育を希望している。
説明を続けながらも、鬼頭は伊集院たち上士と、五代たち郷士との様子を窺っていた。
(常に上士たちの様子を窺い、彼らの一挙手一投足に怯えているように見える。郷士と呼ばれる者たちの怯えようは、日常的に暴力を振るわれている者のそれではないか?)
薩摩の事情を把握していない鬼頭ですら、上士と郷士との関係性が歪であると認識する。
鬼頭とて戦国の乱世を生き抜いてきたため、主君と臣下の間には時として死を命じる厳しい関係性があることを承知している。
しかし、主君が臣下に対して極端な命令を下せるのは、臣下の忠誠に対して十分に報いているからという前提条件が存在する。
彼らが死という極限を受け入れられるのは、己の死後遺族に報いて貰えるという主君との約束があるからに過ぎない。
故に主従の関係は互恵関係にあり、薩摩の上士と郷士のような恐怖による支配は奇妙であった。
(上士が郷士に向ける意識は、同族に向けるそれではない。これではまともな教育など望めまい)
上士たちが概ね不服そうに鬼頭の説明を聞き流しているのとは対照的に、郷士たちは一言も聞き逃すまいと決死の形相を浮かべて聞き入っている。
中には文字が書けないのだろう、与えられた墨と硯、筆を用いることなく必死に覚えようと小さく復唱を繰り返す者すらいた。
上士たちが聞き流しているのは、必要があれば郷士たちに問えば良く、郷士が返答できなければそれは郷士の罪となるのだろう。
鬼頭はチラリと上士たちを眺める。
伊集院は既に興味を失っているのか、完全に説明を聞いておらず、薩摩には存在しないであろう大きな板ガラスが嵌った窓に興味津々の様子であった。
(上士と郷士、私の想像よりも遥かに根深い問題がありそうだ。早く源内先生に相談せねばならぬ)
それ以降も鬼頭は説明を続けたが、伊集院たちの様子に改善は見られなかった。
何度か口頭で注意をするものの、その場限り態度を改めるのみで、それが継続しないのは明らかであった。
体に染みついた習慣や意識は、そう簡単に矯正できるものではないのだ。
「説明は以上とする。鐘が鳴るまでの間を小休憩とし、その後学術院内を案内するゆえ二度目の鐘が鳴るまでに教室へと戻るように。厠で用を足すものは、休憩中に済ますように。それから……」
コホンと小さく咳払いをし、鬼頭は全員を見回しながら言葉を重ねる。
「改めて諸君らに教えるまでもないと思うが、念のために伝えておく。我が学術院は講義の始まりと終わりに必ず、全員が起立し師範に対し礼を述べる。これは学ぶ者としての礼儀であり、学徒側が号令を掛け自発的に行うものである。今日は最前列にいる君が号令せよ。『起立、礼、ありがとうございました』と述べ着席すれば良い」
鬼頭は敢えて最上位の席に座している伊集院を指名し、全員の反応を探っていた。
郷士たちは鬼頭の言葉に深く頷くのみで、特に反発心を覚えている様子はない。
反面上士たちは明らかに苛立った様子を隠そうともしない。
それでも薩摩の威信を背負っている自負からか、伊集院は声を張って皆に号令し、彼の号令一下皆が揃って頭を下げて礼をする。
伊集院は心底不愉快げな様子であったが、樺山は思考の読めない無表情を貫いていた。
鬼頭は二人の様子から、自分が言葉に込めた意味を理解していると判断する。
(確か伊集院は薩摩学徒の中心的人物。流石に薩摩も筆頭には優秀な人物を据えたか。となると樺山がそれを補佐する右腕か)
鬼頭はこの講義から薩摩一行に根付いたおおよその力関係を把握すると、彼らの礼に小さく答礼して教室を後にする。
教室を辞する直前、郷士たちが慌ただしく駆け回り、何かと上士の世話をしている様子を見て、心の中でため息をこぼす。
既に平賀は教室を後にしていたのか、付近に姿が見えなかったため彼の姿を求めて周囲を見渡していた。
すると教室の後ろ側の出入り口から一人の郷士が出てくるのが見える。
彼は不安げな面持ちで周囲を見渡し、恐らく厠へ向かおうと歩を進めたように思えた。
鬼頭はその方向が真逆であると指摘するべく、郷士の背に向かって声を掛けた。
「おい、厠はそっちじゃないぞ」
鬼頭としては軽く声を掛けたつもりであったが、郷士の反応は劇的であった。
弾かれたように飛び跳ねると、すぐさま廊下の端で膝をついて平伏する。
その一連の動作を見て鬼頭は唖然としてしまった。
それは決して一朝一夕で身に付くような動作ではない。
そうせねばならない必要性に駆られ、血の滲むような反復の末に身に付いた反射的行動だったのだろう。
「廊下で平伏するな、他の者の通行を妨げるゆえな。それから厠は反対側だ、壁の案内を良く見るように」
「はっ! ご指導ありがたく存じます」
郷士は礼を述べて立ち上がりはしたものの、決して鬼頭の顔をみることなく俯いたまま立ち去る。
その様子を何とも言えない決まりの悪さを抱いて見送っていると、平賀がひょっこりと姿を現した。
「授業は如何でしたか?」
「……その件について、少し相談があり、職員室にてお話できませんか?」
にこにこと笑みを絶やさない平賀に対して、鬼頭は苦々しい表情を浮かべている。
平賀が軽く頷いて同意を示すと、二人は連れ立って職員室へと戻った。
本来学術院では、学校の鐘に従う必要がないのだが、薩摩一行たちに講義をする際に都合が良いため、それを利用したスケジュールを組んでいるのだ。
故に休息時間はそれほど長くないのだが、どうしても薩摩一行の耳がある教室の傍では出来ない話題であった。
「連中のあの態度はいったい何なんでしょうか? 厳しい身分制度があるとは聞いていましたが、あそこまで人間扱いをしないとは思いませんでした」
職員室に着き、部屋と廊下を隔てる板戸を締め切ると、鬼頭は心の中を吐露し始める。
予め平賀より情報を得ていたものの、あそこまで露骨に扱うことが根付いているとは思っていなかったのだ。
「ははは。確かにアレには驚いたでしょう? しかし、流石は薩摩です。見事なまでの『教育』を施したようです」
「あれが!? 源内先生にはアレが教育に見えるのですか!?」
教育に身を置く者として看過できなかったのか、鬼頭が思わず激して声を張った。
「我々が認識するそれとは異なりますが、アレこそ薩摩の『教育』です。薩摩にとっては、人の間に格差を設け、片方を道具に落とすことが合理なのです」
思わず感情だけで反論しそうになった鬼頭だが、一度大きく深呼吸してから考える。
どう考えても合理的には見えないのに、平賀はそれを合理だと言う。
自分には見えていない何かを平賀は把握しており、己はそれを見落としているのだと思い、何とか理解しようと頭をひねる。
「少しだけ私の知っている知識を共有しましょう。薩摩に於いて長らく運用されていた地頭・衆中制が敷かれていた折は、今ほど苛烈な身分制度ではなかったと聞いています。それがあることを切っ掛けに、あのように強烈な上士・郷士制度へと改められたのです」
「……その原因とは一体?」
必死に考えを巡らせるものの、答えが出なかった鬼頭は平賀に問いを投げかける。
変わらず内心の読めない笑みを浮かべる平賀は、なんでもないかのように爆弾を投下した。
「実は、薩摩の変貌には上様、正確に言えば三位様が関わっているのです」




