千五百八十年 六月上旬
「ちょ、ちょっと源内先生! もっと声を抑えてください!」
源内が不用意に放った不穏当極まりない言葉に、鬼頭は心臓が縮み上がる思いだった。
「何を慌てているのですか? 三位様ご自身が妄信を避け、正しい批判は歓迎すべきと仰られているじゃないですか」
源内の発言は正しい。静子は自分も必ず間違うことがあるため、無批判に受け入れず検証することを推奨していた。
それでも静子が今までに築いてきた実績を前に、彼女を批判できる人間など限られており、妄信どころか崇拝に近い感情を抱いている領民が多い始末だ。
とは言え誰が聞いているかも判らない場所で、声を大にして静子批判など繰り広げられては堪らない。
「三位様は仰いました。学問には様々な視点からの観察が不可欠であると! 上位者に対する忖度から口を閉ざせば、健全な議論は行われないと!」
「そうは言っても、三位様が諸悪の根源であるような物言いは控えてください! 過激な信奉者が耳にしたら、闇討ちぐらいはしかねないんですから……」
「ははは、口で勝てないから暴力に頼るような輩に負ける気はさらさらありませんが、気を付けるとします」
威勢の良い言葉とは裏腹に、末成り瓢箪と揶揄される源内では、暴漢を撃退するなど夢のまた夢だろう。
「厳密に言うならば三位様は直接関与されていないのですが、御用商である『田上屋』のご隠居が行っていた商いが原因なのでしょう」
「ご隠居というと、当代に身代を譲って九州に渡られた久治郎翁ですか?」
「そうです。裸一貫から成り上がり、今や日ノ本中に暖簾内(同じ屋号を掲げる店どうしの関係性を表す言葉、グループ会社のようなもの)を広げられた立志伝中の人物です」
源内が言うように、久治郎は早い段階から信長の覇業を見据え、西へ東へと商圏を拡大し続けていた。
中でも九州に関しては、みつおが琉球・九州地方に向かった際に同行しており、島津家とみつおとを結ぶ縁からアグー豚の繁殖に成功した元亀元年(1570年)の秋ごろから養生の薬として豚肉の味噌漬けと、織田家が検閲した鶴姫の手紙を親元へ届けるようになっている。
ただし、検閲によって鶴姫はみつおという豪農の許に嫁いだことになっており、彼が織田家、ひいては静子の家臣であることは知られていない。
東国の豪農みつおの許で元気に過ごしており、やがて子を設け幸せに暮らせているということは長年にわたり島津家に伝えられていた。
因みにアグー豚の味噌漬けは大変美味であり、島津家にとって年に一度のご馳走として認識されている。
そんな久治郎は天正三年(1575年)早々に隠居宣言をするとともに九州に軸足を移し、暖簾内で金銭を融通できる送金機能を確立していた。
この功績が九州の国人たちにも評価され、静子の御用商人であり、芸事保護に関する現地総代理人としての地位を獲得し、現地の国人たちと交渉できる立場を勝ち得ている。
余談だが久治郎はこの時点で三十代後半であり、到底翁と称されるような年齢ではない。
元々実年齢よりも老けて見られることを武器にするべく、化粧を施してまでより老人に見えるように振舞った。
外見から老人だと侮られるが、話してみると怜悧な言動から敬意を勝ち取るという彼の戦略であった。
「その久治郎翁が一体何をされたのですか?」
「特段何もしておられませんよ。ただ、三位様の許可を得て圧倒的に正確で多くの織田家に関する情報を九州の国人たちに届け続けられたのです。それこそ東国よりもずっと早くからね」
「そ、それは世の動向をいち早く知ることが出来たというだけでは?」
「そうですね。毎年毎年恐ろしい勢いで勢力を拡大し続ける織田家の動向を詳細に知り、戦国最強と名高い武田が屈したと聞いた薩摩はどういう考えに至ったと思いますか?」
問われて鬼頭は考える。軍事に明るくない彼だが、それを言い訳に思考を放棄することはしない。
得られた情報から鬼頭は様々な事を思案する。
「うーん、すみません。軍略に疎い私では『明日は我が身』と身構えたぐらいです。薩摩の国人からすれば、戦国最強の座は織田に移ったとみるでしょうから」
「ふむふむ」
「だからと言って薩摩の戦力は一朝一夕に増やせないため、身分制度を強固にして権力を集約したのかな? と考えます」
源内の内心が読めない相槌から、自分の説に対する自信が揺らいだのか鬼頭はしきりに恐縮していた。
鬼頭の様子をみていた彼は、顎に手を当てて考え込む仕草をしている。
その様子からは正解とも思えないが、さりとて完全に的外れとも思えなかった。
「なるほど、そういう視点もありますか」
「え!! 当たっていましたか?」
「当たらずとも遠からず、いや影響はあったかもしれない程度ですね。島津は三位様の戦功から、個人の誇りや武勇に頼らない軍事体制が武田を敗北へ追いやったと正しく理解しました」
島津家は従来の地頭・衆中といった緩やかな身分制度に危機感を抱き、十年という歳月をかけて上意下達が絶対であり、反論を許さぬ強固な支配体制となる上士・郷士制へと切替を図った。
それが決定的に先鋭化したのが武田の敗北であり、反抗した領民に対する極刑を機に取り返しがつかない程に加速したのだ。
「正しく理解したからこそ、彼らは民から自由と感情を奪い、命令を忠実に遂行する『部品』へと組み替えたのです」
源内が淡々と語る内容に鬼頭は思わず息を呑んだ。
薩摩が長らく育んできた地頭・衆中制度は、言わば持ち回り制で年貢の取り立てと納付を行うものであり、非情な取り立てをしようものなら自分が取り立てられる番が地獄となる。
こういうお互い様という関係性があるため、どうしてもお互い持ちつ持たれつという緩い関係性であった。
そこから身分を固定化することで地位の逆転を防ぎ、絶対に反撃されない優位性と貧しい薩摩の経済が相まって苛烈な身分制度として刷り込まれていったのだ。
これに反発する者に対し極刑という刑罰を科すことで、個人の尊厳や自由意志、自発的な感情を奪い、恐怖による支配という極めて冷徹で合理的なシステムを敷いた。
理屈としては鬼頭も納得せざるをえなかったが、その悍ましい発想は彼に吐き気を催させた。
「三位様は誰もが安心して暮らせる世を目指しておいでです! 薩摩のように人を『部品』として扱うなど対極に位置する思想ではありませんか! どのように曲解すれば三位様の作り上げられたものを、あそこまで捻じ曲げてしまえるのか……」
郷士は、更に下層の泥たる民草に塗れながら、水面に咲き誇る上士という『蓮の花』を水中でただひたすらに支え続ける『茎と根』に等しい扱いであった。
人を単なる道具として使い潰すその悍ましい思想と、誰もが安心して暮らせる世を目指す静子の仕組みとを、同じ合理性として同一視するなど、流石の鬼頭にも到底受け入れがたいものであった。
「そのような恐怖による支配では、いずれ不平不満が噴き出すのではありませんか? それについてはどの様に解決するのでしょうか」
上位者から押し付けられる理不尽に対して一切の反抗を許さぬ環境下では、下位者はひたすらに忍耐を強いられ、日々鬱憤と憎悪を募らせていくだろう。
抑圧された感情はいずれ限界を迎えて爆発し、結束して反旗を翻されては如何に薩摩といえども無傷では済まない。
「不平不満など出ませんよ。不満を解消するのではなく、不満を抱くこと自体を封じるよう徹底的に教え込んだのです。言って聞かせるような生易しい教育ではなく、繰り返される暴力と徹底した見せしめによる刷り込みでね」
急速に拡大し続ける織田家を前に、薩摩は急いで強固な支配体制を構築する必要があった。
身分を刷り込んだ後に、互いの連帯を破壊すべく徹底した相互監視と密告の推奨を行う。
それによって反抗の芽を摘み、その際に更に周囲へ密告したものには厚く報いると皆に宣言するのだ。
こうして疑心暗鬼になった民たちは急に羽振りが良くなった者はいないか、またお上に歯向かう不届きものはいないかと探り合うことになる。
更に被支配階級を細分化し、僅かな特権を与えて差を設けた。
つまり郷士とは上士からは搾取されるが、自分たちも更なる下層である民草を搾取し、見下すことによって鬱屈した思いを『下』に向けるよう仕向けられているのだ。
こうした下々の者たちの苦境に対し、支配者は強大な外敵として織田家の存在を匂わせた。
更に『お前たちが苦しいのは強大で恐ろしい織田家が我らを滅ぼそうとしているからだ。今耐えねば、国が滅ぶ』と繰り返し言い続ける。
「そのような無体を、自国の領民に何年も強いたのですか?」
「島津とて必死だったのでしょう。知ることは時として毒になるのです。知らぬままならば、幸せでいられたでしょうに、知ってしまった以上は備えねばならないのです」
そして恐怖政治の最終段階として、不条理な命令に従うことや、厳しい状況に耐えて尽くすことを『至上の誉れ』『美徳』であると徹底的に洗脳した。
皆が団結して存亡の危機に立ち向かう中、不平を抱くこと自体が『恥』であり、狂気的な忠誠心を持つように価値観を書き換えてしまった。
全てを聞き終えた鬼頭は、余りの内容に表情を引きつらせていたが、情報を整理するうちに違和感を抱く。
「……少し疑問なのですが、本当に織田家に抗する為だけにここまでの犠牲を払ったのでしょうか? 外敵に備える為だけに、ここまで国の全てを歪めてしまうというのは、どうにも理解し難いのです」
「比較的肥沃な土地で生まれ育った我らには判らぬのでしょうが、それが貧しい火の国で生きる彼らの生存戦略なのでしょう。おっと、つい話し込んでしまいましたね。時間は大丈夫ですか?」
源内の指摘を受けて、鬼頭は随分と時間が経ってしまった事に気が付いた。
慌てて資料などを準備すると、忘れ物が無いことを確認して椅子から立ち上がる。
「すみません。そろそろ彼らに学術院の施設案内をしてきます」
「分かりました。施設は分かりませんが……食事では一波乱あるでしょう。食堂には私も向かいますので、後で合流します」
「昼飯を食べるだけですから、揉めることなどないでしょう。今日の献立は、取り立てて豪勢という訳でもありませんし」
「鬼頭先生、我らが常食している内容は、他国から見れば異質です。私たちだって十年遡れば、満足に食事をとっていたとは言えないでしょう?」
「そうでした。すみません、すっかり日常になってしまい失念していました」
自らの認識の甘さを恥じ、鬼頭はバツが悪そうに後頭部を掻いた。
尾張の食事事情は、他国からすると垂涎の的であった。
他国から出向した者が、なかなか帰国したがらない原因がそれであるという話が通説になっているほどだ。
「彼らからすれば、ややもすると奢侈であると騒ぐかもしれませんね。念のため昼食は、他の利用者が食事を終えた後に時間をずらしましょう。初日から大喧嘩など勘弁願いたいですから」
源内の提案に、鬼頭も深く頷く。
「承知しました。それでは、彼らを施設案内にお連れしてきます」
源内に一礼すると、鬼頭は足早に職員室を後にした。
一人残された源内は深く椅子に腰かけると、ほうと息を吐いた。
「過酷な身分制度によって尊厳を麻痺させられた薩摩の若者が、暴力的とさえいえる豊かな食事を前にどのような反応を示すのでしょうね? 生存に根差した本能は正直でしょうし……今から楽しみです」
「それでは案内を再開します。再びこの教室に戻ってきますが、学内を移動するので各自が貴重品を管理するように」
教室に戻った鬼頭は、伊集院たちを前にこの後の予定を宣言すると、移動の準備をするよう号令した。
これを受けてまず伊集院が立ち上がり、次いで樺山、そのあとも席次通りに上士が続く。
その様子を見て鬼頭の表情が険しくなった。
(まさか、薩摩では退出する順番すら定められているのか? 訊ねたところで、上士と郷士との関係とはそういうものだと言うのだろうな)
教室の前後に分かれて席に着いている以上、上士は前方の出入り口から、郷士は後方の出入り口からそれぞれが同時に廊下に出て、列を作る方が効率的なのだ。
身分による優先順位がここまで徹底されているならば、むしろ扱いやすいとすら鬼頭は感じる。
薩摩学徒の中心人物は伊集院であり、次点が樺山だ。
伊集院及び樺山の二人を尾張の流儀に染めてしまえば、下の者も自ずと倣うだろうと予想する。
この二人を取り崩すことが、薩摩学徒攻略の鍵となると鬼頭は考えていた。
「この階は一般講義をする教室が多くある。解放されていない教室は利用中だ。余り大声で騒がないように」
注意事項を告げた鬼頭は、出入り口が閉ざされた教室のドアからガラス越しに室内を示しながら説明する。
伊集院たちは静かに鬼頭の説明を聞いていた。
それは彼らが学術院のルールを受け入れたからではなく、祖国とお家の体面を保つため面従腹背しているに過ぎないことは鬼頭も理解している。
彼らは薩摩の代表としてこの学術院に派遣されている。
仮に不祥事を起こして退学にでもされようものならば、いかに伊集院であろうとも厳罰は免れない。
それ故に表面上はおとなしく取り繕っているに過ぎなかった。
(露骨に反発してくれた方がやり易いのだが……さすがにそこまで愚かではないか)
伊集院たちとて、故国の誇りを背負って選抜されたという自負があるだけに、失点に繋がるような行動を慎む程度の頭は持ち合わせていた。
学術院の規則に反した場合、追放処分もあり得るという脅しが効いたのか、彼らは間者として技術や知識を持ち帰るという本来の使命を思い出しているのだろう。
感情のままに規律を乱し、早々に尾張を追放されれば己は勿論、薩摩自体の名折れとなってしまう。
なんとしても、その事態だけは避けねばならないと肝に銘じていた。
「貴君は柴田家を滅ぼすつもりか!」
逐次鬼頭から説明を受けながら講義中の教室が並ぶ廊下を移動していると、とある教室から師範の大声での叱責が外まで響いてきた。
何事かと思わず鬼頭が足を止めると、伊集院たちもそれに続く。
教室の中では一人の学徒が皆の前で失態を犯したことに赤面し歯を食いしばって立っていた。
そんな彼に対して厳しい表情を浮かべた師範が、感情を交えず淡々と言葉を重ねる。
「貴君の案では籠城前の城に対して、十分な物資を運びこめない。更に言うならば敵の襲撃に対する備えが無いため、一度の失敗で計画が破綻する。無駄に思えても、複数経路から搬入できるよう余裕をもって計画せねばならぬ」
「は……はい」
師範が告げる内容は正論であり、反論の余地が無いため彼は項垂れるしかなかった。
彼とて妨害を予想していなかった訳ではない、敵襲に耐えられるだけの兵力を随伴させる計画だったのだが、それでも不十分であると断じられたのだ。
確かに敵の規模が想定を超えた場合、命綱となる物資を奪われる上に兵力も失われてしまう。
一回限りの輸送を成功させることで、敵との接触機会自体を最小限にするという思想自体は間違いとまでは言えないのだが、十分でもなかったのだ。
「兵站は普段目立たぬ影働きなれど、怠れば勝てるいくさを敗北に導くことになる。常に不測の事態を想定し、余裕を持った物資運搬計画を立てるべきなのだ。それを踏まえて、もう一度最初からやり直せ」
「……はい」
「不明の点あらば、何時なりとも応じよう。貴君が得心ゆくまで、幾日でもお相手いたそう」
そこで話を区切ると、師範は白墨を手に板書を始めた。
叱責された当人は学友に慰められてはいるが、その表情には鬱屈したところはなく、発奮している様子がありありと窺える。
周囲の雰囲気も同様であり、師範から叱責を受けた学友を侮蔑したり嘲笑したりといった負の感情はなく、己があの場に立っていたら師範が満足する案を示せただろうかと己に問う姿勢すら見えた。
教室全体が講義に集中しており、師範の言葉を一字一句聞き漏らすまいと、皆が真剣な表情で黒板に向かっている。
その光景の一部始終を見ていた伊集院は、視界に収めることすら耐えがたく、腸が腐り落ちるかのような悍ましさを覚えた。
それは叱責の内容や、講義の在り方についてではない。
柴田家に連なる者が、下賤な平民上がりの男ごときに公衆の面前で恥をかかされたことにある。
伊集院からすれば世の中の根幹を成す法則を無視した暴挙であり、彼の信じる秩序が完全に崩壊した無法地帯にしか見えなかったのだ。
そしてその衝撃は伊集院だけでなく、他の薩摩学徒にとっても同様であった。
五代を含む郷士にとってもその光景は衝撃的であり、薩摩の常識ならば上士に恥をかかせた時点で手討ちにされるのが道理なのだ。
そしてその不条理に異を唱えようものなら、一族郎党が同様に処遇される。
(何故あの男は罰されぬ! 薩摩では斯様な無礼には死を以て贖わせるというのに!)
己の価値観を土台から突き崩されるような光景を目にし、五代の胸中に訪れたのは混乱と恐怖であった。
自身が常識だと思っていた薩摩の法が、尾張では全く通用しないという現実を彼の脳は理解できなかった。
何としてでも否定しなければ、薩摩で受けた数々の不条理な仕打ちが、命を尽くして捧げてきた忠誠が無価値なものに見えてしまうからだ。
(違う……。薩摩と尾張とでは何もかもが違いすぎる。薩摩とは根本から異なる理がここにはあるのだ。鬼頭先生が仰っていた。身分によって待遇に差を設けることが許されない。ゆえに織田家の重鎮である柴田家に連なる者であっても、平民の師範から叱責されようと問題にならないのだ!)
尾張では薩摩の常識が通用しない異質な世界だと、五代は漸く理解し始めていた。
血筋(身分)よりも資質(能力)という合理性が尾張では重んじられているのだ。
更なる思考の海に没しようとした際に、五代は視線を感じた。
それは己の主人たる樺山のものであった。
感情の籠らぬ視線を向けられただけ、それだけだというのに五代の頭からは先ほどまで沸き立っていた熱が消失する。
慌てて姿勢を正すと『郷士』として正しい態度を示した。
樺山は五代が視線を伏せた段階で興味を失い、視線を戻して前を見る。
「そろそろ良いか? この学術院は広いゆえ、足早に説明して参ろう」
茫然自失の体であった伊集院が衝撃から立ち直ったのを確認した鬼頭は、室内で講義を続ける師範に軽く黙礼すると、次の教室を目指すために歩き始める。
不愉快な光景を目に入れまいと言わんばかりに、伊集院は俯いたまま足早に鬼頭を追った。
他の者が慌てて追随する中、樺山は立ち止まって師範が黒板に『兵站の算定根拠』を書く様子を、鋭い視線で見つめていた。
しかし、すぐに前へと向き直り、彼は伊集院を追うべく駆け出すのだった。
講義室を後にして階を上がり、実験室や音楽室、美術室などの特殊教室などの説明を終えた鬼頭は懐中時計を取り出して時間を確認し、丁度良い頃間と判断して食堂へと足を向ける。
同様に食堂を目指していた源内と合流すると、一同は学術院最大の特長ともいえる施設に向かった。
食堂に向かうにつれて甘辛く煮つけられたと思わしき料理の香りが漂ってくる。
単純に甘いだけでは到達できない料理が放つ魅惑の香りに、伊集院たち薩摩学徒たちは動揺を隠しえない。
その様子を見た源内は笑みを深め、彼らの行く末を想像して楽しくなってきた。
「ここが大食堂となる。我が学術院の関係者は、皆がここで食事を取ることを義務付けられている。細かい決まり事や作法など事前に説明すべきこともあるのだが、ここで立ち止まっていては周りの迷惑になるゆえ、まずは中に入るぞ」
そう告げると鬼頭は先頭を切って食堂に入っていった。
多少困惑しつつも伊集院たちが続き、視界が開けてくるにしたがってそれは驚愕に変わった。
彼らの目に飛び込んできたのは茶碗に山と盛られた輝かんばかりの白米である。
普段彼らが目にする米とは一線を画す、まさに純白と評するに相応しい米というだけでも驚きだというのに、膳には主菜、副菜に汁物、香の物までが並んでいた。
それは味噌特有の胸をくすぐる芳香を発する具沢山の味噌汁であり、種類は判らないがとにかく大きく肉厚の魚の身が湯気を立てている。
そして食堂に入る前から彼らを魅了していた香りの発生源である、ツヤツヤと見事な照りを晒す煮物の姿があった。
上位者だけがそれを食らっていたのならば、彼らもここまで驚きはしなかっただろう。
ここでは食堂に座す平民と思しき男から、明らかに上等な仕立ての衣服を身に着けている者まで、皆が同じ献立の食事を取っているのだ。
薩摩の痩せ細った赤米しか目にしていない彼らにとって、米の一粒一粒がみずみずしく大きな尾張米の白飯は炊き立ての香りの暴力として胃袋を直撃した。
そしてその暴力は常に空腹を抱える郷士たちにとって、拷問にも等しい効果を発揮する。
口の端から思わず涎が垂れ、それを乱暴に手で拭ったが生唾を飲み込む音が大きく響いてしまった。
四方から押し寄せる甘美な誘惑に抗えないのは、伊集院たち上士とて同様である。
立て続けにあびせ続けられた非日常の洗礼によって忘れていた空腹は、居ても立っても居られない程の衝動となって彼らを苛み続けた。
「厨房には事前に話を通してありますから、まずは私がするのを見て、それを真似てください」
完全に石と化してしまった彼らをよそに、源内は積み上げられた膳を一つ手に取ると、厨房と食堂を隔てるカウンターに向かった。
源内は手にした膳に白飯に味噌汁、焼き魚と煮物の皿を取り、香の物が入った小鉢を据えて『予約席』と書かれた札の置かれた机に置く。
尾張に於いてはごくありふれた献立だが、薩摩学徒たち、中でも郷士たちにとっては一生に一度見るか見ないかというご馳走であった。
薩摩学徒の中で最も身分の高い伊集院にすら、これほどの内容はそうそうお目に掛かれない。
「鬼頭師範、食堂については私から説明しますが、よろしいですか?」
「承知しました。よろしくお願いします」
鬼頭が源内の申し出を受け入れ、一歩後ろに下がる。
源内は伊集院たち薩摩学徒たちを見据えて、言葉を続けた。
「先ほど鬼頭師範も仰いましたが、学術院の関係者は原則として食堂での食事を義務付けられています。怪我や病気など特別に酌むべき事情があれば考慮されますが、それを除けば食事を取らないという行為は許されません」
源内は薩摩学徒たちの様子を横目に盗み見た。
郷士たちは机の上にある食事に目が釘付けとなっており、話が耳に入っているか疑わしい。
上士たちがそれに気づいて大きな咳払いをしたため、慌てて視線を逸らすが、すぐに元の姿勢に戻ってしまう。
源内はこれ以上お預けをするのは酷だなと思いつつ、手早い説明を心掛けて言葉を続けた。
「他所では異なるかもしれませんが、学術院の食堂では一汁一菜が『基本』であり、季節や手に入る食材によって更に副菜や小鉢がつきます」
「これが! この御膳が、ここでの最低限だと申されるのか!?」
織田領、特に尾張は信長の生国であり、東国の中でも特別に発展しているという事は人伝に聞いていた。
それを差し引いてもあり得ない程の圧倒的格差が眼前にあり、伊集院は思わず後ずさる。
慶事でもないというのに白飯が出るというだけでも驚きなのだが、当然かのように惣菜(おかずのこと)が添えられていることが彼の心を委縮させた。
源内はそれを殊更誇るでもなく当然のことのように説明している。
それは学術院に於いて、食事はこの内容が日常であり、これらの献立を作るために必要とした食材が安定して供給され続けることを意味していた。
伊集院だけでなく、樺山もその事実に気付いているのか、表面上は平静を取り繕っているが明らかに動揺していることが見て取れる。
(伊集院は感情を抑制できないようですね。厄介なのは樺山か…… 彼は明らかに顔色が悪いというのに、涼しい表情を浮かべている。それ故に腹の内が読めません)
源内は常と変わらぬ笑みを浮かべつつも、樺山について己を律することが出来る一廉の男と認めた。
薩摩学徒たちを学術院の『規格』に染め上げるにあたり、最大の障壁となるやもしれぬと心に留める。
「ええ、三位様が我が国を根底から改善し続けられておりますゆえ、ここではこの食事が提供されるのです」
源内の言葉に五代は雷に打たれたかのような衝撃が走った。
薩摩に於いては上士の中でも選りすぐりの伊集院ですら動揺する食事が、誰にでも与えられる当然として扱われているのだ。
そして彼の発言に聞き逃せない一言が含まれていた。
『改善し続けられて』ということは、これですら完成形ではないという事なのだろう。
今あるものに満足せず、常に改善をし続けられている。
(凄い……お目にかかった事はないけれど、師範の仰る三位様は皆の腹を満たせるよう理を書き換え続けておられるのだ!)
五代の脳裏には様々な想像が駆け抜けていく。
これだけの食事を大量に安定して提供するには、膨大な量の米が収穫され、かつ備蓄も山のように積まれてなければならない。
それには単年だけの豊作では全く足りず、複数年度に亘って長期的な安定収穫を支える技術、虫やカビに食われぬよう作物を保存する技術、圧倒的な作付け面積を実現する技術、見果てぬ夢の先がここにある。
五代の常識では到底図りえない功績であり、まさに神仏の御業と並ぶほどであった。
(一体どれほどの幸運に恵まれ、どれほどの研鑽を積めばこれほどの境地にたどり着き、そしてそれを皆に配れるのだろう?)
目の前で未だに湯気を立てている御膳、それを実現するために必要とされる膨大な理を思い浮かべ、五代は心が折れそうになる。
(諦めてなるものか! 如何に三位様が偉大な御方であろうと、神仏ならぬ同じ人の身であるはず。ならば僅かなりとも己にもできるはずだ! それはこの国が証明している。理は、数の理屈は決して裏切らない。この桁外れに優れた数理が薩摩にも必要なのだ!!)
圧倒されたことにより、己の意に反して慄き続ける膝を掴んで、屈しそうになった心を叱咤する。
(さすれば親父やお袋、兄弟たちが飢えに苦しむことがなくなる。皆が腹一杯に飯を食える世にすると誓ったのだ!)
五代は確信していた。
薩摩の理不尽な支配体制から家族を救い出すには、尾張の理こそが唯一の希望なのだと。
尾張留学という千載一遇の好機を掴めたのだ、ここから全てを盗み取り薩摩に返す。
否、絶対になさねばならぬのだ。
悲壮感さえ漂う決意を宿す五代の表情を見つめる一対の瞳があった。
源内だ。彼は己が話した内容が誰に一番深く届いたかを正確に見抜いていた。
学究の徒としての資質に関しては、間違いなく五代が群を抜いているとみて、源内はほくそ笑んだ。
そのまま伊集院に樺山と視線を巡らせるが、五代程の理解を示す表情はついぞ見当たらなかった。
「源内先生、そろそろ食事を取らないと厨房の片付け時間が押しております……」
「おっと、これは失礼。それでは簡潔に、三つの規則だけ覚えてください」
鬼頭から指摘を受け、源内は食堂利用の規則を口にする。
「一つ、自分のことは自分で行う。各自が必ず自分の膳を取りにいきます。他者に取りに行かせてはなりません。二つ、飯と味噌汁はお代わり自由です。これも必ず自分が取りに行くこと。三つ、特別な事情を除いて、食事を残すことは許されません。食べられない量のお代わりをするような者には罰があります」
源内は説明し終えると、思い出したように手を打って続けた。
「飯を一杯のみでは『枕飯』(死者に供える膳)として縁起が悪いため、二杯以上を推奨しています。食べきれずに残すぐらいならば、量を加減するのも自由です。ただし、貴方たちは原則として二杯の飯を食べるようにしてください。明らかに身の丈と目方の釣り合いとして、痩せすぎだからです。後ほどそれぞれを測って数字で管理する『身体測定』を行いますので、ご承知おきください」
(学術院では痩せているか否かというのを判断するのにさえ数の理を用いるのか!)
五代にとって痩せているという判断の基準にすら理を用いる尾張の制度は、慣習に縛られた薩摩のそれよりはるかに先進的に見えた。
それに二杯の飯についても驚愕であった。周囲を見渡せば、未だにまばらに食事をとっている者がおり、それぞれに飯の盛りが違っている。
山盛りの飯を掻き込むものもいれば、少しだけ追加の飯を盛って貰いに行く者もいた。
圧倒的に豊かな食糧事情であり、それを合理的に運用している学術院の規則には舌を巻くほかない。
「一つ質問をしてもよろしいか?」
「ええ、問題ありませんよ」
珍しく樺山が先んじて問を放ち、それを受けて源内は満面の笑みで返す。
「何故、他者を使ってはならぬのですか?」
「学術院は初等教育の場たる三位様の学校とは違います。自分自身の管理すらままならない未熟な者に、学問という果てしない追究の道を歩む資格はありません。この理念をここでは『自主独立』と称し、基本理念に据えております」
「承知しました」
源内の言葉に樺山は涼しい顔で納得する。
樺山が学術院の規則に対してそれほど思うところがあるように見えなかった。
彼が下がったのを見て、他に質問は無いかと促すが、誰も口を開かない。
お預けも限界に達したと察した源内は、『待て』の解除を宣言する。
「さあ、各自が膳を取りなさい。そして尾張の流儀を存分に味わってください」




