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戦国小町苦労譚  作者: 夾竹桃
天正七年 乱世終焉

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千五百八十年 五月下旬

薩摩の威信を託された若武者たちは、兵庫津(ひょうごのつ)(静子が命名した正式名称は神戸港だが全く普及しなかった)へと到着した。

活気に満ちた港へ降り立った一行は、早速行動を開始する。

彼らは決して物見遊山(ものみゆさん)に訪れたのではなく、史実に於ける文明開化著しい頃の西欧列強と本邦の関係さながら、隔絶した文明レベルを埋めるべく派遣された斥候と言える。

たとえ港街といえども僅かなりとも得られる情報を探る必要があった。

内心では上士(じょうし)のするべき仕事ではないと思うものも多くいたが、それでも主君たる島津家より厳命されているため従う他ないのだ。

こうして上士は周辺一帯の視察に赴き、郷士(ごうし)は上士の支援及び荷物運搬などの雑役に従事していた。

郷士たちが(せわ)しなく動き回る中、五代(ごだい)だけが何も命じられておらず呆然と立ち尽くしている。

当然である。彼は樺山家(かばやまけ)の道具だ。

主君たる樺山は、荷物である五代に対していちいち詳細な指示を与えることがない。

他の郷士たちが立ち働く中、何をして良いかすら判らない五代は焦燥を抱えながらも耐えて待つしかないため、荷物番を自認して樺山と己の荷物を整頓し終えると見張り始める。


「薩摩とは空まで違うな」


五代は火山灰が降り注ぎ灰色に曇る薩摩の空と、海と地上が水平線で交わるようにすら見えるその光景とを比べ言葉を失った。

船舶の積載効率を追求した結果か、骨格を鋼鉄で補強され規格化された巨大な荷箱が、壁のように積み上がっている。

それらを軽々と吊り上げるのは、天を突く巨人の(かいな)を模した鋼鉄の怪物――クレーン(起重機)の威容であった。

学の無い五代には、そこで行われている作業の理屈など到底理解が及ばない。

だが、そんな彼をして圧倒されるほど、高度に洗練された仕事の流れであることは(うかが)い知れる。

立ち込める潮香、石畳を叩く車輪の(きし)み。そして薩摩の港で見る雑多な人足とは異なり、揃いの作業服を纏って機械のごとく整然と立ち働く荷役夫たち。

どれもこれも、彼が知る薩摩のそれではない、遥か先の未来を予感させる風景であった。


この圧倒的な技術力の差を前に、五代は己がただ踏み潰されるだけの羽虫に過ぎないという無力感を噛みしめていた。

澱んだ潮の臭気が鼻腔を突いた瞬間、胸の奥底に封じ込めていた濃密な血の記憶が、堰を切って溢れ出す。

それは忘れることすら許されない、五代を縛り続ける死の気配だった。


――数年前、遠縁にあたる郷士が理不尽に斬り捨てられた。抗議した家族も、理由すら解らずに引き立てられ、泣き叫ぶ幼子までもが容赦なく処刑された。

一族郎党の生首が四辻(よつつじ)獄門台(ごくもんだい)に晒され、(からす)(つい)ばまれ朽ち果てるまで無残に捨て置かれた。

網膜に焼き付いたあの日の光景と、鼻の奥にこびりついた強烈な腐臭が、今も五代の耳元で(ささや)き続けている。

『思考するな。ただ従うだけの道具となれ。さもなくば、お前の家族も同じ末路を辿(たど)る』と。


唐突に牙を剥いた凄惨な記憶が彼の胸を激しく掻き乱し、思わず叫ばぬよう口を押えて激情が過ぎ去るのを耐えていると、不意に冷たく湿った突風が吹き抜け、鼻腔の死の匂いを洗い流した。

その湿り気を帯びた風は、彼が薩摩で幾度も嗅いできた、嵐を(はら)んだ空の匂いだった。

具体的な根拠を他者に説明できないが、彼はこうした天気の予測を毎日、それこそ気の遠くなるほどに繰り返してきた。

その経験に裏打ちされた先読みの精度には、彼なりに自負するところがあった。それ故に彼は己の算定結果に驚愕する他なかった。


(いや、まだだ。しかしこのままでは……)


彼は思い悩んでいた。五代の予測では、明日大きく天候が崩れる。それも嵐にと呼ぶに相応しい荒れ具合となるだろう。

薩摩一行は、明日この兵庫津を発って尾張を目指す、そうなれば洋上で嵐に見舞われることになりかねない。

大丈夫だ、この船ならば嵐にも負けぬはずだ。そう己に言い聞かせるものの、彼の不安はどんどん大きく膨らんでいった。

郷士は上士が動く前に動き、上士が止まる前に場を整える。ならばここで迷っている(いとま)はない。彼は勢いよく立ち上がると、己の主人たる樺山の許へと駆け出した。


(急がなければ!)


焦る五代は港湾の何処(いずこ)かにいる樺山を捜す。目を凝らして周囲を見渡すが、それらしき一行が見当たらない。

だがその程度で諦める五代ではなかった。呼吸を整えると、再び港の中を走り抜ける。

五代が捜し求める樺山その人は、伊集院らと共に港の端、漁船などの小型船舶が多数係留されている停泊場にいた。

彼らは港湾の端から端までじっくり観察しており、大型船らが積み荷を上げ下げする物流の主戦場から、海の民たちが生計を立てる為に操る舟へと視察対象を移している。

興味なさげな伊集院とは対照的に、樺山は彼らの一挙手一投足を見逃すまいと真剣な表情を浮かべていた。


「明日の準備は終わったかー?」


今まさに舟を係船環と呼ばれる鉄製の輪へともやい綱で結ぼうとしている男に向けて、隣の小舟を係留し終えた仲間が声を掛けた。

どうやら明日の漁について段取りを話し合っているようだった。

伊集院は興味を無くし、彼らの会話を右から左へと聞き流す。


「ああ、明日は時化(しけ)る(海が大きく荒れることを意味する)だろうから近場だけで済ますぞ」


「りょーかい。湾外の仕掛けを今のうちに回収してくるよ」


そんな会話が交わされている中、ドタドタと騒々しい足音が樺山らの耳に届いた。

すぐさま刀に手を掛けつつ、騒音の発生源へと視線を向けると、五代が汗を流しながらまっすぐに向かってくる姿が目に入る。

伊集院は騒音の正体を知って早々に興味を失うが、樺山は険しい顔つきに変わった。

やがて五代が樺山の目の前まで来ると彼は停止し、肩で息をしている呼吸をすぐさま整えて顔を上げる。

そんな彼に待っていたのは主君の言葉ではなく、拳であった。


「あぐっ!」


樺山の放った拳が五代の頬を打ち抜いた。

容赦のない打擲(ちょうちゃく)により、口の中に鉄錆の味が広がり、視界が揺れて膝から力が抜ける。

目の前を火花が散るかのようにチカチカと明滅する光を幻視するとともに、何が起きたか理解できぬまま地面に横たわる五代。

やがて彼は頬に伝わる硬い地面の感触から、ようやく己の状況を理解するが、五代の口は抗議の言葉を放つどころか沈黙を守って引き結ばれていた。

樺山は己の背後に伊集院を隠すと冷徹に告げる。


「郷士が上士の顔を直視しようなど……身の程を知れ」


その言葉に五代の肩がビクリと震えた。

彼はすぐさま頭を地面にこすりつけるように平伏する。

それは差し迫った死に対する条件反射であり、樺山の言葉を聞いた彼の体が無意識にとった行動であった。


「騒々しく駆けずり回りおって……その首、要らぬと申すか?」


五代の背筋に冷たいものが伝わる。死という極限のストレスが、強烈な重圧となって彼を押さえつける。


「殿の命がなくば、とうにその首()ねておるわ。殿の御厚情に感謝し、樺山家の道具としての役目を果たせ」


フッと五代の体を押さえつけていた重圧が消える。

彼は震える足で体を起こし、決して(おもて)を上げぬまま頭を地面にこすりつけた後、何も告げずにその場を立ち去った。

フラフラとした五代の足取りに樺山は眉を(ひそ)めるが、すぐさま平静な表情を浮かべると、伊集院に向き直り頭を下げる。


「道具がお耳汚しをしました」


「出来の悪い端くれで苦労しておるな」


(なぐさ)めているような口ぶりだが、一切の感情が籠っていない。

それどころか、伊集院は頭を下げている樺山を見下してすらいた。

樺山の謝罪に気を良くした伊集院は、仰々しい態度で言葉を続ける。


「殿も酔狂なことを仰せだ。あのような使えぬ道具を持っていけなど……ま、尾張の連中を騙すには使えるやもしれぬな。では戻るぞ」


伊集院が樺山に背を向けて歩き出す。彼は海、そして空を見る。


「はっ」


しかしすぐさま視線を伊集院に戻すと、樺山は短く返答した。







五代は肩を落としながら、荷物の許へと戻った。明日のいつ頃かまでは判らないが、嵐が来ることは間違いないだろう。

流石に嵐の規模までは読めないが、到底安全な航海は望めない。

樺山や伊集院などの上士を危険に晒したとあっては、責任を追及されるのは自分を含む郷士となる。

上士に迫る危険を見過ごした『罪』によって、一族郎党が責任を取らされるのだ。

己の失態で父母や兄弟たちにまで(とが)が及ぶことだけは断じて回避せなばならない。

しかし、先ほどの様子から口頭での伝達は難しい。どうにかして彼らに伝える方法は無いものかと五代は思案する。


「おい」


考え込む五代の背後から声が飛んできた。聞き覚えの無い声色から樺山ではないと判る。

しかし、郷士仲間の声ではないし、郷士特有の(なま)りもなかった。

ならば面識のない上士だと判断し、相手の顔をみないよう五代は地面にひれ伏した。


「郷士の分際で文字など何を企んでいる」


その言葉に自分を間者であると判断されたと思い、五代が慌てて否定する。


「ち、違います! 自分はっ!」


「出せ」


感情を含まない冷徹な上士の言葉に体が震え、懐にしまった天候予測を炭で記した布切れを、顔を伏せたまま頭上に差し上げる。


「自分はただ日和(ひより)の算定をしていただけです! 決して薩摩を裏切るような真似は――」


「黙れ」


五代の言葉を途中で(さえぎ)ると、上士は彼から布切れの束をひったくった。

そして一枚一枚中身を検めては、その辺に投げ捨ててゆく。

元々ボロきれ寸前の布であるため、風に乗って散ってしまうが、五代は只管(ひたすら)に平伏しているしかなかった。

卑しき郷士の身なれば上士言葉は絶対であり、郷士からの抗弁など不要なのだ。

そして上士と郷士との(いさか)い、常に郷士が責任を取らされる結末になる。

たとえ己が仕える樺山家の上士ではないからといえ、抗ってはならないと定められていた。


「ほぅ……」


心臓が縮み上がるような痛みが走る。五代の脇はじっとりと汗ばみ、樺山に打擲された際の強烈な重圧が(よみがえ)った。

己の意思に反して震える手を、地面に押し付けるようにして必死で耐える。


「そこで何をしている」


五代の耳に聞きなれた樺山の声が届く。

だがその声を聴いても彼が安心することなどなかった。

味方が現れたなどという感情は無い。他所の上士と揉めるなどと言う不始末をどう詫びれば良いか、それだけを考えていた。


「おや樺山殿。何か御用でしょうか?」


態度が急に柔らかくなったことから、五代は男が樺山よりも下位にあたると察する。

当然ながら上士の間にも上下関係が存在する。

樺山が伊集院に対して敬意を払うように、この上士は樺山に対して(へりくだ)る必要があった。


「必要な荷物があったため取りに参ったのだが、私の道具が何か粗相(そそう)をしましたかな?」


周囲に散らばる布切れと、床で平伏して震える五代。そして上士の手には一枚の布切れ、それだけで樺山はおおよその流れを掴んだが、あえて疑問を口にする。


「この郷士が何やらコソコソと書きつけていたので、中身を検めていたところです。案の定こんな物を隠し持っておりました」


そう言うと上士は樺山に五代が書き記した布切れを見せた。

そこには明日の天気を読む際に五代なりの考察や根拠が記されている。

中には算術に近しい内容までもが記されており、学の無い郷士がこのようなものを作れるとは夢にも思っていない彼は、五代が何処からか不正に入手したと疑ったのだ。

だが樺山は、突き出された書付をザッと眺めると一笑に付した。


「無益なことをなさいましたな。一見それらしく見えますが、内容がまるで出鱈目だ」


「なんですと!」


「大方、漁師たちの話を聞いて日和を予測したと言い張りたいためのものでしょう。このような布切れに価値などありはせぬ」


五代は樺山の言葉を聞いて激しく動揺していた。

中身に目を通してさえもらえれば、明日の航行について危険性だけでも伝えられると期待したが、それすら叶わない拒絶にも近い態度であった。


「しかし、貴殿のなさりようは看過できませぬな。それは我が家の道具であり、殿より直々に尾張へと持っていくよう言いつかったもの。如何に怪しかろうと、私に伺いすらせぬまま検めるというのはどういった了見か?」


樺山は一歩上士に詰め寄った。

五代は樺山の持ち物であり、それが怪しいならば、まずは持ち主に話を通すのが筋というものだ。

案の定、上士は言葉を詰まらせる。


「そ、それは」


「……此度のみ不問とする。次があれば容赦せぬ。たとえ道具といえども樺山家のもの。一言の断りもなく使うなど、我が家を軽んじているも同義!」


樺山家の顔に泥を塗るならば容赦しない。言葉の節々に含まれた警告に上士は思わず喉を鳴らす。


「騒がしいな。何事だ」


そこに伊集院が戻ってきた。樺山は一瞬、上士に視線を向けた後、すぐさま伊集院に頭を下げて現状を報告する。


「お目汚しをしてしまい、大変申し訳ありません。我が道具がここで盛大に転び、持っていた塵芥(ちりあくた)をまき散らした所です。彼は丁度居合わせただけです」


「伊集院様、お耳汚しをしてしまい、大変申し訳ございません」


樺山の言葉に上士も続く。彼は樺山からの視線の意味を理解した。これ以上、騒ぎを大きくすれば伊集院からの不興を買うことになる。

それは二人とも避けたい話だ。だから全ての騒動の責任を五代に押し付けるという『嘘の報告』に乗った。

二人の様子を見て伊集院はつまらなさそうに鼻で笑う。


「ふん、出来の悪い駄馬だな」


それだけ言うと彼は船の中に用意された部屋へ向かう。その後を上士が慌てて追いかける。反対に樺山は手に持っていた布切れを五代に投げつけた。


「片付けろ。無駄口は要らぬ」


それだけ言いつけると、樺山は五代に背を向けて立ち去った。

一人現場に残された五代はのろのろと立ち上がり、散らばった布切れをかき集め始める。

震える手で一枚一枚拾い上げながら、彼は先ほどの言葉を反芻(はんすう)していた。

それらしく見えるだけの出鱈目。五代が長年培ってきた経験と知識を、一言で無価値と断じた。

五代の胸に去来したのは激しい怒りや憎悪ですらない。己の声が誰にも届かないという無力感であった。

唐突に胸が締め付けられるような苦しさを感じたが、それを彼が口にすることはなかった。

人間扱いされぬ己の境遇は恐怖の記憶と共に脳裏に焼き付いている。血の通わぬ道具として扱われることに慣れてしまった。そして道具に痛みを感じる器官など必要ない。


命じられた荷物番をこなし、五代は震える体を押さえながら明日を待った。目を瞑れば斬り伏せられる父と母、そして兄弟の姿が浮かんでは消えてゆく。

声を上げたかったが、それすらも上士の反感を買う恐れがある。五代は言葉を無理やり飲み込み、体を丸めて眠りについた。







翌日、嵐が来ると信じて疑わなかった五代の頭上に広がっていたのは、薄曇りではあるが波も穏やかな出航日和であった。

雲間から覗いた太陽が照り付ける中、乾いた風が五代の頬を撫でてゆく。

己の予測では少なくとも雨が降るはずであった。だが現実はこの通り、雨どころか晴れ間まで除く始末。

胃が締め付けられるような思いで、彼は必死に周囲の空を見渡した。

しかし、無情にも嵐の予兆と言えるような痕跡は見当たらない。


「……どういう事だ」


それから数刻が経ち、昼を過ぎても天候は崩れず快晴とは言わないまでも良好な天気であった。

苛立ちを隠そうともしない伊集院の横で、昨日五代を詰問した上士が土気色の顔色で立ち(すく)んでいる。


「は、ははっ。こ、これは……」


震える唇から言葉を紡ごうとするが、彼の口からは何ら意味のある内容が出てこない。

言い訳すら出来ない様に、伊集院の怒りは更に膨れ上がった。

彼の怒気にあてられた他の上士や郷士たちも一様に口を(つぐ)んで押し黙る。

このまま何事も起こらないことを彼らは天に祈ったが、往々にしてそういう時ほど不運が訪れる。

腕を組んで苛立つ様子の伊集院を見た漁師たちが、ニヤニヤと笑いながら軽口を叩いた。


「なんだあの田舎侍たち。波の穏やかな絶好の船出日和なのに、揃ってこんなところで何をしてんだ?」


「なんでも嵐が来るぞーって騒いで船を無理やり止めたらしい。で、仲良く空を眺めているって訳よ」


「おいおい、嵐って南の海の事か? そんなもん、山があるから心配するこたぁねぇのに」


「全くだ。ま、田舎モンには兵庫津(ここ)の空読みは難しかったようだな」


漁師たちが笑いながら去って行く。薩摩なら彼らは問答無用で斬り伏せられていただろう。

だがここは兵庫津だ、そのような真似をすれば島津の顔に泥を塗ることになる。

伊集院たちは、彼らの嘲笑を黙って聞くしかなかった。やがて漁師たちの姿が消え、船着き場には薩摩の者たちしかいなくなった頃、伊集院は無言で立ち上がる。


「ぐぼっ!」


伊集院は隣に立つ上士の顔面を殴り飛ばした。男は無様に転がっていくが、伊集院は追撃の手を止めない。

倒れた男を冷たい目で見下ろしたまま、何度も彼を踏みつける。

彼は亀のように丸まりながら必死に許しを請うが、伊集院は一切耳を貸さずに延々と男の背を蹴り続けた。

苦痛と恥辱からすすり泣きが漏れ、床に異臭を放つ液体が流れて初めて伊集院が攻撃の手を止めた。


「使えぬ泥草履め」


それだけ言うと、亀の姿勢で失禁したまま震えている男の体を渾身の力で蹴り飛ばし、海へと叩き込んだ。

激しい暴力に晒され、上手く泳ぐことすら出来ない上士に対して、誰も未だに手を差し伸べられないでいる。

下手に彼を助けようとしたところを伊集院に目撃されれば、自分たちも仕置きの対象になってしまうからだ。

息を殺し、ただこの嵐のような理不尽が通り過ぎるのを待つしかなかった。


(山……もしかして地形で天候は変わるのか)


薩摩で長らく天気を読んでいた五代は、自分の予測に自信があった。

多少の誤差はあれど、天候が荒れて嵐が来ることは間違いないと確信していた。

事実、「嵐が発生する」という目算自体はあっている。だが、漁師たちの言葉が本当ならば嵐はここではなく南の海で発生していることになる。

その差が生まれた理由が、薩摩と兵庫津との地形の違いという『条件』を五代は知らなかった。

不意に、五代の耳元で氷のように冷たい声が囁かれた。


「――だから信じれば恥をかくだけだと警告したのだ」


息がかかるほどの距離に立っていた樺山は、己が漏らした小水ごと海で洗濯された男を一瞬見下ろした後、去りゆく伊集院の背中を追いかけた。

小さくなっていく樺山の背中を見て、五代は薩摩という小さな檻の中で、天狗になっていた己の浅慮を思い知った。

震える足を引きずって未だに(うずくま)る上士の姿に彼は理解した。

もしも、あの時に天候予測を口にしていたら、そこで這いつくばっているのは己であることを。


(違う。郷士ならば恐らく……)


斬り捨てられゴミ屑のように海へ捨てられる己と、不始末の責任を取らされる父母、そして兄弟たちを想像して血の気を失う。

行動一つで家族全員の未来が決まる事に、彼の心は完全に凍りついた。


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― 新着の感想 ―
更新ありがとうございます。 毎回の事ですが早く続きが読みたくなります。 彼等が静子と会ったらどうなるかとわくわくします。 身分制度がこの世界でどうなって行くか楽しみです。 この程度で鬱だ何だと言う方々…
こんな程度でいちいち「鬱展開」とか前置きしろとか言ってる奴、本気? ちゃんとした小説読んだことないんだろうね
身分制度が何とも酷いですが、薩摩という土地が「全員の食い扶持を確保しがたい」土地であることからみて「力付くで何もかも統制しないと詰む」という環境がこういう情景をつくったのだろうなぁ。 薩摩を出ても彼ら…
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