第9話「水の味」
井戸の水が、澄んだ。
三日晒して、四日目の朝。釣瓶を上げたザラの部下(大柄な方)が、桶を覗き込んだまま動かなくなったので、何事かと思った。
「隊長。これ、飲んでいいやつですか」
「毒見は私がする」
ザラが柄杓で一口飲んで——彼女も、止まった。
「……アルト様。これは、何だ」
「何って、水ですが」
「水がこんな味のわけがあるか」
失礼な話である。だが、村人が代わる代わる飲んで、全員同じ顔で止まるのを見ているうちに、俺も認めざるを得なくなった。この井戸の水は、おかしい。うまい方向に、おかしい。
沢の水がうまいのは、まだ分かる。山の水だ。だがこれは村の真ん中の井戸で、しかも千年呪われた荒れ地の縁だ。理屈に合わない。
「土がいいんだろうかね」とマルタ婆さんは言った。「昔から、変な土地なんだよ、ここは。呪われ呪われと言われる割に、作る物の質だけは、悪くなかった」
俺は畑の土を一握り、手に取ってみた。……図面を開くまでもない。指でわかる。団粒がしっかりしていて、腐植の匂いがする。放棄されて数年の土が、こんなに生きているものだろうか。
分からないことが、また一つ。道具箱の底が、だんだん賑やかになってきた。
*
その晩、井戸の完成祝いをやることになった。
言い出したのはマルタ婆さんで、炊き出しを仕切ったのは、ハンナさんだった。訳あり一家の母親で、これまで村の隅で息を潜めるように暮らしていた人だ。「竈を直してもらった礼です」と言って、彼女は村じゅうの雑穀と、干し肉の切れ端と、俺が礼にもらい続けて持て余していた兎を、大鍋に集めた。
——そして俺は、この世界に来て十八年で、一番の飯を食った。
麦と雑穀の粥だ。それだけ聞けば、貧しい飯だ。だが違った。芯まで火が通った麦の一粒一粒が、あの井戸の水を吸って、ふっくらと立っている。兎の出汁が全体を丸くまとめ、上に散らした干し香草が、湯気と一緒に鼻に抜ける。
「……なんだこれ」
「なんだこれ、じゃないよ銀の坊。おかわりかい」
「おかわりです」
三杯食った。ザラは四杯食っていた。ヴェルクは食えない体を心底悔しがり、「匂いだけ供えろ」と要求して、祠の前に椀が一つ供えられた。村人たちは「新しい領主様は祠を大事にする信心者だ」という顔をした。半分正解で、九割九分間違いである。
火を囲んで、誰かが古い歌をうたった。老人ばかりの村の、掠れた歌だった。うまくはなかった。だが、いい歌だった。
十七人。いや、狼と人形を入れて、十九か。
俺はこの晩のことを、多分、ずっと憶えていると思う。
*
宴の火が落ち着いた頃、マルタ婆さんの隣に座った。
聞きたいことがあったのだ。四日前からずっと、ドガの言葉が刺さったままだった。——あの銀狼は、何を守ってる?
「マルタさん。昔語りを、ひとつ頼めますか」
「藪から棒だね。何の話だい」
「魔物の話を。……この村の年寄りしか知らないような話を」
婆さんは、火を見たまま、しばらく黙った。この人の沈黙は、忘れたから黙るのではない。どこから出すか選んでいる沈黙だ。
「……あたしの婆さまの、そのまた婆さまの頃からの話だけどね」
低い声だった。火の爆ぜる音の下を、くぐるような。
「この村の年寄りは、代々、妙なことを言うのさ。哭原の魔物はね、銀の坊。——泣いとった、って」
「泣いて……?」
「哭きの原、なんて呼び名も、そこから来たって説さ。教会は『狂神の呪いが風で鳴るのだ』と言うがね。あたしの婆さまは、若い時分に一度、緩衝帯の奥で迷ってね。魔物の群れのすぐ側で、一晩、木の洞に隠れて過ごした」
婆さんの目が、火の向こうの闇——北を見た。
「喰われると思った、と婆さまは言ったよ。だけどね、群れは一晩じゅう、洞の婆さまに気づきもせず……ただ、原の真ん中の方を向いて、座っとったんだと。何十頭も。じっと。そんでね、時々、あの声で鳴くんだ。あれは吠え声じゃない、って婆さまは死ぬまで言い張ってた」
「じゃあ、何だと」
「——通夜の声だ、ってさ」
火が、ぱちりと爆ぜた。
「原の真ん中の方を向いて、って言いましたね。魔物たちは、何に向かって」
「知らないよ。婆さまも知らない。教会に聞けば『狂神の封印に引き寄せられる穢れた性だ』と言うんだろ。……けどねえ。あたしゃ長いこと生きたけど、穢れってのは、あんな悲しい声で鳴くもんかね」
マルタ婆さんはそれきり、口を閉じた。仕舞い方も、この人は堂に入っている。
*
宴が果てて、村が寝静まって。
俺は祠にヴェルクを送っていった(本人が「今夜は祠で寝る」と言い張ったのだ。神様にも寝るという概念があるらしい)。
戸口で振り返ると、人形は台座に座らず、祠の奥の壁——北の壁を向いて、立っていた。
「ヴェルク?」
「……ん。ああ」
「何を見てる」
「別に。何も」
嘘は言わない神様が、初めて、嘘みたいな返事をした。
正確には——後で分かることだが——あれも嘘ではなかったのだ。「何も」見えはしない。壁なのだから。ただヴェルクはあの夜、壁の向こうの、ずっと下の、深いところにある何かの方角を、じっと向いていた。
哭原の魔物たちが、千年、向き続けているのと。
同じ方角を。




