↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/56

第9話「水の味」

井戸の水が、澄んだ。


三日晒して、四日目の朝。釣瓶(つるべ)を上げたザラの部下(大柄な方)が、桶を覗き込んだまま動かなくなったので、何事かと思った。


「隊長。これ、飲んでいいやつですか」


「毒見は私がする」


ザラが柄杓(ひしゃく)で一口飲んで——彼女も、止まった。


「……アルト様。これは、何だ」


「何って、水ですが」


「水がこんな味のわけがあるか」


失礼な話である。だが、村人が代わる代わる飲んで、全員同じ顔で止まるのを見ているうちに、俺も認めざるを得なくなった。この井戸の水は、おかしい。うまい方向に、おかしい。


沢の水がうまいのは、まだ分かる。山の水だ。だがこれは村の真ん中の井戸で、しかも千年呪われた荒れ地の縁だ。理屈に合わない。


「土がいいんだろうかね」とマルタ婆さんは言った。「昔から、変な土地なんだよ、ここは。呪われ呪われと言われる割に、作る物の質だけは、悪くなかった」


俺は畑の土を一握り、手に取ってみた。……図面を開くまでもない。指でわかる。団粒がしっかりしていて、腐植の匂いがする。放棄されて数年の土が、こんなに生きているものだろうか。


分からないことが、また一つ。道具箱の底が、だんだん賑やかになってきた。



その晩、井戸の完成祝いをやることになった。


言い出したのはマルタ婆さんで、炊き出しを仕切ったのは、ハンナさんだった。訳あり一家の母親で、これまで村の隅で息を潜めるように暮らしていた人だ。「(かまど)を直してもらった礼です」と言って、彼女は村じゅうの雑穀と、干し肉の切れ端と、俺が礼にもらい続けて持て余していた兎を、大鍋に集めた。


——そして俺は、この世界に来て十八年で、一番の飯を食った。


麦と雑穀の粥だ。それだけ聞けば、貧しい飯だ。だが違った。芯まで火が通った麦の一粒一粒が、あの井戸の水を吸って、ふっくらと立っている。兎の出汁が全体を丸くまとめ、上に散らした干し香草が、湯気と一緒に鼻に抜ける。


「……なんだこれ」


「なんだこれ、じゃないよ銀の坊。おかわりかい」


「おかわりです」


三杯食った。ザラは四杯食っていた。ヴェルクは食えない体を心底悔しがり、「匂いだけ供えろ」と要求して、(ほこら)の前に椀が一つ供えられた。村人たちは「新しい領主様は祠を大事にする信心者だ」という顔をした。半分正解で、九割九分間違いである。


火を囲んで、誰かが古い歌をうたった。老人ばかりの村の、掠れた歌だった。うまくはなかった。だが、いい歌だった。


十七人。いや、狼と人形を入れて、十九か。


俺はこの晩のことを、多分、ずっと憶えていると思う。



宴の火が落ち着いた頃、マルタ婆さんの隣に座った。


聞きたいことがあったのだ。四日前からずっと、ドガの言葉が刺さったままだった。——あの銀狼は、何を守ってる?


「マルタさん。昔語りを、ひとつ頼めますか」


「藪から棒だね。何の話だい」


「魔物の話を。……この村の年寄りしか知らないような話を」


婆さんは、火を見たまま、しばらく黙った。この人の沈黙は、忘れたから黙るのではない。どこから出すか選んでいる沈黙だ。


「……あたしの婆さまの、そのまた婆さまの頃からの話だけどね」


低い声だった。火の()ぜる音の下を、くぐるような。


「この村の年寄りは、代々、妙なことを言うのさ。哭原(なきはら)の魔物はね、銀の坊。——泣いとった、って」


「泣いて……?」


「哭きの原、なんて呼び名も、そこから来たって説さ。教会は『狂神の呪いが風で鳴るのだ』と言うがね。あたしの婆さまは、若い時分に一度、緩衝帯の奥で迷ってね。魔物の群れのすぐ側で、一晩、木の(うろ)に隠れて過ごした」


婆さんの目が、火の向こうの闇——北を見た。


「喰われると思った、と婆さまは言ったよ。だけどね、群れは一晩じゅう、洞の婆さまに気づきもせず……ただ、原の真ん中の方を向いて、座っとったんだと。何十頭も。じっと。そんでね、時々、あの声で鳴くんだ。あれは吠え声じゃない、って婆さまは死ぬまで言い張ってた」


「じゃあ、何だと」


「——通夜の声だ、ってさ」


火が、ぱちりと爆ぜた。


「原の真ん中の方を向いて、って言いましたね。魔物たちは、何に向かって」


「知らないよ。婆さまも知らない。教会に聞けば『狂神の封印に引き寄せられる穢れた性だ』と言うんだろ。……けどねえ。あたしゃ長いこと生きたけど、穢れってのは、あんな悲しい声で鳴くもんかね」


マルタ婆さんはそれきり、口を閉じた。仕舞い方も、この人は堂に入っている。



宴が果てて、村が寝静まって。


俺は祠にヴェルクを送っていった(本人が「今夜は祠で寝る」と言い張ったのだ。神様にも寝るという概念があるらしい)。


戸口で振り返ると、人形は台座に座らず、祠の奥の壁——北の壁を向いて、立っていた。


「ヴェルク?」


「……ん。ああ」


「何を見てる」


「別に。何も」


嘘は言わない神様が、初めて、嘘みたいな返事をした。


正確には——後で分かることだが——あれも嘘ではなかったのだ。「何も」見えはしない。壁なのだから。ただヴェルクはあの夜、壁の向こうの、ずっと下の、深いところにある何かの方角を、じっと向いていた。


哭原の魔物たちが、千年、向き続けているのと。


同じ方角を。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。