第10話「無録の手」
夢を、見た。
夢の中で、俺は六歳だった。
*
テラ王国の鑑定は、六歳の誕生月に、最寄りの教会で行われる。
ハーヴェル家の三兄弟は、揃って回路持ちの家系のはずだった。長兄ロイドは並の土回路。次兄カイルは、家始まって以来と言われた良い回路で、いずれ耕導の統に望みがあるとまで言われていた。だから俺の番も、家の者は「まあ、並は出るだろう」という顔で見ていた。
鑑定士の司祭は、俺の両手を取って、目を閉じて、長いこと黙った。
長すぎた。カイルの時の、三倍は黙った。
やがて司祭は目を開け、困った時の大人の顔で、父を見た。
「……回路が、視えません」
「細い、ということですかな」
「いえ。無い、のです。ハーヴェル卿。——この子の中には、水路そのものが、引かれておりません」
帰りの馬車の中を、俺は今でも思い出せる。誰も口を利かなかった。九歳のカイルだけが、窓の外を見たまま、歌うように言った。
「無録だ。無録様が、うちに生まれた」
神録に載らない者。神々に何も与えられなかった者。父は叱らなかった。叱らない、というのが答えだった。
その日から、俺の名前は屋敷の中で、ゆっくりと「無録様」に置き換わっていった。
*
夢は、都合のいいことに、あの日にも飛ぶ。
七歳の秋。納屋の裏。
俺は、壊れた鳥籠を直していた。厨房の隅に捨てられていた、真鍮細工の古い鳥籠だ。捨てられた理由は、扉の蝶番が捻じれて、骨が三本折れていたから。だが俺には、その籠の「あるべき形」が視えていた。視えて、しまっていた。
鑑定の日から、それは始まっていた。物に触れると、図面が視える。壊れた物ほど、はっきりと。誰かに言おうとして——言う前に、屋敷の使用人たちの噂話が耳に入った。隣の領で「物の声を聞く子」が教会に連れて行かれた。戻ってこなかった。
だから俺は、隠れて直した。直さずにいられないのに、直すところを見られてはいけない。七歳の処世術として、我ながら上出来の、最悪の結論だった。
「あら」
声がして、心臓が止まった。
母だった。籠と、俺の手の中の折れた骨材とを見て、母は全部を理解した顔をした。俺は言い訳を探した。見つかる前に、母は俺の隣にしゃがんで、直りかけの鳥籠を、そっと持ち上げた。
「きれいに直すのね」
「……おかあさま、あの」
「アルト」
母は籠を陽にかざした。真鍮が、鈍く光った。
「あなたの手は、壊すためじゃなく、直すための手ね」
それだけだった。母は誰にも言わなかった。ただ、それからたまに、「壊れたの」と言って、小物を納屋の裏にそっと置いていくようになった。留め金の壊れたブローチ。脚の折れた小箱。俺はそれを直して、同じ場所に置いた。何も言わない、二人だけのやり取りだった。
母が病で寝付いたのは、俺が十二の年の冬。雪の残る朝に、逝った。
形見分けで俺に回ってきたのは、動かない懐中時計ひとつ。四時十二分で止まった、母の時計。
俺はそれを、直していない。
図面はとっくに視えている。竜頭の下の歯車が二枚、欠けているだけだ。半日あれば直る。直れば、あの細かい秒針の音が戻る。
でも、直したら。
母に関する「やり残し」が、この世から、なくなってしまう。
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目が覚めた。
領主館の、雨漏りの染みの残る天井。夜明け前の灰色。胸元で、止まった時計が体温で温まっている。
「……なんで今さら、あんな夢を」
答えは、分かっていた。井戸の宴の晩からだ。ありがとうねえ、と手を握られた。おかわりかい、と椀に粥を注がれた。ふん、と言いながらミナが毎日現場に来る。兎が戸口に置かれている。
要するに、俺は、動揺しているのだった。
無録様の十二年は、期待しないことで俺を守ってきた。期待しなければ、失望もない。なのにこの村ときたら、来てひと月やそこらで、俺の防壁を片っ端から——そう、まるで、修理でもするみたいに。
「……この村なら」
口に出しかけて、やめた。フラグの管理には定評があるのだ、俺は。
代わりに起き上がって、板切れに今日の作業を書いた。塀の続き。畑の土起こしの段取り。ガンツの工房に薪割り台の相談。書きながら、少し笑ってしまった。無録様の帳面が、こんなに埋まる日が来るとは。
*
——ところで。
その頃、俺の知らない場所で、俺の知らない話が転がり始めていた。
村から半日下った麓の町、街道沿いの酒場でのことである。
「リンデ? あの死に村か」
「それがよ、死んでねえんだと。ドガの組の若いのが言ってた。井戸が生き返って、屋根が全部塞がって……ひと月だぜ? ひと月でだ」
「新しい領主が来たんだろ。銭でも積んだか」
「無録の三男坊が、銭なんか持ってるかよ。……妙なのはそれだけじゃねえ。あのあたり、此処んとこ、魔物がぱったり出ねえんだと」
「そりゃ結構なこった」
「結構なもんかい。おめえ、獣が静かな山がどういう山か、知らねえのか」
酒場の隅で、行商帰りの男が一人、その話を聞くともなしに聞いていた。男は翌朝、荷を積み直しながら、ふと考えた。死に村が生き返りかけているなら——最初に食い込んだ商人が、一番うまい汁を吸う。
とはいえ、あんな縁まで行きたがる同業者は、まずいない。
一人だけ、心当たりがあった。同業者というか、同業者の端くれというか。没落した商家の娘で、誰も行かない筋ばかり回っている、あの変わり者の小娘なら。
*
数日後の昼下がり。
塀の上で石を積んでいた俺は、街道の先に、小さな砂埃を見つけた。
荷車が一台、ろばに引かれて、まっすぐこの村に向かってくる。御者台には、赤毛をひっつめた若い女がひとり。距離があっても分かった。彼女はこの廃村を見て、怯むどころか——身を乗り出していた。




