第8話「境界線」
その夜、狩りは空振りに終わったらしい。
当然だ。シルヴァ——銀狼に、俺は勝手に名前をつけていた——は、あの晩から村の「線」の内側にしか現れない。そして狩人は、領主の許可なく村の敷地では狩れない。
翌朝、ドガが一人で来た。弓は置いてきていた。話をしに来た、ということだ。
「領主様。取引をしに来た」
領主館の、机がひとつしかない執務室で、俺たちは向かい合った。ヴェルクは棚の上で置物のふりをしている。この人形、置物のふりだけは天才的にうまい。
「あんたの村の敷地権は認める。だが、あの狼の足跡は村の外周にもある。外は俺らの狩り場だ。文句はねえな」
「あります」
「即答かよ」
ドガは額を揉んだ。俺は板切れに書いてきた要点を、机に並べた。前世の癖だ。交渉は口でやるな、紙でやれ。
「まず、こちらの言い分。この村の周囲一帯で、ここひと月、魔物の被害はゼロです。狩られる理由が今のところない」
「理由ならある。討伐の証だ」
ドガも自分の言い分を、指を折って並べた。
「いいか、領主様。狩人ってのはな、獣を狩って肉と皮で食ってるんじゃねえ。魔物を狩って、角なり牙なりを教会に納めて、聖務報奨で食ってんだ。銀狼一頭なら金貨三枚。うちの組は五人、家族を入れりゃ十九人。冬までに稼がなきゃならん額から逆算すりゃ、あの狼は『歩いてる冬越し』なんだよ」
数字だった。俺は、数字には敬意を払う。
「つまり、あなたたちの問題は狼じゃなくて、金貨三枚だ」
「……回りくどい言い方をすりゃあな」
「なら、こういうのはどうです」
俺は二枚目の板を出した。昨夜のうちに、ヴェルクと詰めた案だ。
「一つ。村の外周、塀から矢の届く範囲までを『村の縄張り』として、狩りは無し。ここは領主権限で線を引きます。二つ。代わりに、村の井戸と休み場を狩人組合に開放する。緩衝帯の行き帰りに使ってください。水はいくらでも湧くようになったので」
「……ほう」
「三つ。装備の修理を受けます。うちには腕のいい金物師がいる。折れた山刀、緩んだ罠、革帯の張り替え。相場の六掛けで」
これはガンツの爺さんに話を通してある。正確には、話を通しに行ったら「ワシの工房に触るな」と追い返され、翌朝には工房の前に「修理受付」の板が掛かっていた。ああいう爺さんなのだ。
ドガは板切れを長いこと眺めた。崖の目が、数字を検算する目に変わっていた。
「……六掛けは、安すぎる。裏があると思われるぞ」
「じゃあ八掛けで」
「七掛けだ。即決するな、足元を見られる」
「あんた今、自分の足元の話をしてないか」
ドガの髭が、ぴくりと動いた。笑ったらしい、と分かるまでに数秒かかった。
「——領主様。あんた、変わってんな」
「よく言われるようになりました。最近」
*
取り決めは、板に二枚、同じものを書いて、双方が持った。契約書だ。教会の誓約術に頼らない、ただの紙切れ(板切れだが)。だがドガは「狩人の板は破らねえのが山の掟だ」と言った。掟で回る世界の、掟の重さだった。
「最後に一つだけ、聞かせろ」
帰り際、ドガは戸口で振り返った。
「あの狼が『襲ってない』ってのは、まあいい。俺も足跡は読める。あれは確かに、狩りの回り方をしてねえ。……だがな、領主様。魔物が人を襲わねえなんてことが、あるとすりゃあ、だ」
崖の目が、俺を見た。
「そりゃ『何かを守ってる』時だけだ。山の獣はみんなそうだ。巣の前の熊は、腹が減ってなくても立つ。——あの銀狼は、何を守ってる? この村か? それとも」
俺は答えを持っていなかった。持っていたとしても、言えなかっただろう。
「……さあ。聞けたら、聞いておきます」
「はっ。狼と話す領主か。長生きしろよ」
ドガは手を出した。俺はその手を握った。狩人の手は、岩みたいだった。
握手はした。取引も成った。
だが、ドガの目は最後まで、笑っていなかった。崖の目は戸口を出る瞬間、村の北——哭原の方角を、一度だけ見た。あの目は獲物を諦めた目じゃない。「宿題を持ち帰る目」だ。前世の監査役が、帳簿を閉じる時にする目と、同じだった。
「……ヴェルク」
置物が、棚の上で片目だけ開けた(比喩だ。人形の目は開閉しない。だがそうとしか言えない気配がある)。
「あの人、いつか全部気づくぞ」
「じゃろうな」
「他人事みたいに」
「他人事じゃもの。……まあ、の、坊主。ああいう手合いはな、敵に回すと厄介じゃが」
人形は、にやりと笑った気がした。
「味方にすると、もっと厄介なほど働くもんじゃよ」




