第63話「俺は、アルトだ」
世界の真実を知った翌朝も、井戸の水は、旨かった。
当たり前だ。井戸は井戸だ。俺が神の成れの果てだろうが、無録の三男坊だろうが、水脈は、変わらず旨い水を湧かせている。それが、なんだか無性にありがたかった。
朝、ミナが、ヴェルクを拉致しに来た。
「今日は、髪結んであげる。リボン、緑ね」
ヴェルクは、完璧な人形のふりで小脇に抱えられていった。昨夜、世界の真実を知った俺の目にもただの古い絡繰り人形にしか見えない見事な死にっぷりだった。ただ、すれ違いざま、俺にだけ届く小声で一言。
「……助けんか、たわけ」
俺は、聞こえなかったことにした。
いつも通りだった。神威ゼロの神様と、遠慮ゼロの弟子。世界の真実は、この光景を一ミリも変えなかった。俺はそれを見て、少し笑った。笑えたことに、安堵した。
*
変わったことも、あった。
俺とヴェルクの、漫才の種類が。
夜、祠で。ミナの緑のリボンを頭にぶら下げたままの相棒に、俺は今日の仕事を見せた。
「見ろ、ヴェルク。この鋤の直し、我ながら、いい出来だ」
「……ふん。まあ、悪う、ない」
「悪くない、じゃなくて。褒めろよ。せっかく直したんだから」
「褒め、られるか!」
ヴェルクが、めずらしく声を、荒げた。
「お前を褒めることは、わしを褒めることじゃ。わしは、お前じゃからな! 自分で自分の仕事を『見事じゃ』などと、そんな恥ずかしいこと——」
「あー。なるほど。だから今まで、一回も褒めなかったのか」
「気づくな!」
俺は噴き出した。契約の夜から、ずっとこいつは、俺の仕事を貶しもしないが、褒めもしなかった。その理由が、これだったとは。世界で一番、壮大な照れ隠しだった。
「じゃあ、これからは、俺があんたを褒めるよ。……いい仕事したな、ヴェルク。千年、待った甲斐があったな」
「〜〜〜っ、やめい! それも、自画自賛じゃ! お前がわしを褒めても、結局——ええい、ややこしい!」
一人と一柱、実質、一人。褒めることが、こんなに難しい間柄も、そうはない。
ついでに、長年の疑問も、一つ片付けた。うちの水と土が、やたら上等な訳。
「お前の亡骸の、せいじゃよ」とヴェルクは、こともなげに言った。「地の底で、千年。砕けてなお、あれの器は巡る水と土から、歪みを濾し続けとる。壊れても、性根は変わらんのじゃな。……つまり坊主、お前は、井戸を直す前からこの村の水に、世話になっとったわけよ」
道理で、旨すぎると、思ったのだ。
*
昼、俺は村の縁へ行った。
シルヴァが、いた。銀の狼は、いつも通り療治場の見回りをしていた。俺を見ると、尻尾を一度振った。
俺は、その大きな頭を撫でた。
「……なあ、シルヴァ」
金色の目が、俺を、見上げた。
「お前、知ってたんだな。俺が、何者か。……最初から。だから、あの晩頭を下げた。臣下の礼、だったんだ。俺が『懐かれた』なんて勘違いしてる間、ずっとお前は知ってて」
シルヴァは、答えなかった。
答えられないのだ。言葉を持たない。千年、主の帰りを待って、主が帰ってきても、「お帰りなさい」も言えない。ただ、傍らに控えることしかできない。ヴェルクと、同じだ。言えない者。
俺は、しゃがんで銀狼と目の高さを合わせた。
「言わなくていい。……ありがとうな。ずっと、待っててくれて」
シルヴァは、しばらく俺を見て——それから、いつも通り俺の足元に伏せた。言葉のない忠義を、言葉のないまま受け取った。それで、十分だった。多分、この一頭にとっても。
*
その、夕方。
街道を、一頭の早馬が来た。
御子の紋——ではなく、地味な旅装の男。だが、目つきが、ただの旅人ではなかった。男は、俺に一通の封書を渡した。封蝋に、麦の穂。
「豊穣の御子、エレン様より。……内密に、と」
俺は封を切った。中の紙には、几帳面なけれど、少し急いた字で、一行だけ。
『会いたい。畑の話が、したいのです』
畑の話。あの人が、去り際に言った、口実。だが、その一行の裏に震える手の気配が、あった。
蝕まれ、軋み、それでも、笑っていた、あの人の。




