第62話「俺は、誰だ」
「俺は、誰だ」
その問いは、地下から地上へ戻っても、消えなかった。
数日、俺はまともに、眠れなかった。
俺は、神なのか。全能の創造神の還ってきた成れの果てなのか。それとも、真壁修という、日本のエンジニアなのか。あるいは、アルト・ハーヴェルという、無録と蔑まれた貴族の三男坊なのか。
三つの人生が、頭の中で混ざり合った。
神代の記憶らしいものが、ふいに、蘇りかけては消えた。
何かを掌から切り分ける感触。差し出した指を、小さな手が握り返す温度。暗闇の向こうで、土と、水と、遠い潮の匂い。顔は見えない。名も、声も分からない。ヴェルクから聞いた五柱の誰なのかさえ、結びつかなかった。
思い出した、とは呼べない。夢より短い、感覚の欠片だった。器が、それを留めきれずに。俺は自分の輪郭が、溶けていくような恐怖を味わった。
村の皆は、心配そうだった。ミナが、何度も様子を見に来た。ハンナさんが、飯を運んできた。ザラが、無言で薪を余計に割っていった。俺が「変」なことに、皆気づいていた。だが、誰も、理由を聞かなかった。この村の流儀で。
*
答えをくれたのは、意外にも、壊れた懐中時計だった。
眠れない夜。俺は、胸元の母の形見を取り出した。四時十二分で、止まったままの時計。直せるのに、直していない、あの時計。
図面は、いつも通り視えた。竜頭の下の欠けた歯車、二枚。半日あれば、直る。
——直したら、母のやり残しが、消えてしまう。
そう思って、六年、直さずにきた。神の記憶なんてなかった頃から。真壁修だった頃から。無録様と呼ばれていた頃から。ずっと。
その時、気づいた。
神だろうが、修だろうが、アルトだろうが。俺は、いつも、同じことをしていた。壊れた物を見ると、疼く。直したくなる。直せるのに直せないものを、抱えて軋む。——それは、記憶じゃない。肩書でもない。もっと深いところにある、俺の芯だ。
三つの人生を貫く、たった一本の、正しい線。
「……ヴェルク」
俺は、祠へ行った。ヴェルクは、待っていた。何日も、待っていたのだと、分かった。
「俺が、誰か。……分かった」
「ほう」
「俺は、アルトだ」
ヴェルクの、真鍮の目が、俺を見た。
「真壁修でもある。……たぶん、あんたの言う父神でもあるんだろう。全部、俺だ。切り分けられない。……でも、名乗るなら、アルトだ。この村の無録の領主で——直す者だ。それが、俺の芯だ」
長い、沈黙が、あった。
やがて、ヴェルクは——笑った。今度は、寂しい笑いではなかった。千年待った者が、ようやく待った甲斐を得た、そういう笑い方だった。
「……上等じゃ」
小さな声で、神様は、言った。
「神に、戻れとは、言わん。父に、戻れとも。……お前が、お前のまま、それを決めるのが一番怖かった。じゃが、お前はアルトだと言うた。直す者だと。……上等じゃ、坊主。それでこそ——」
そこで、ヴェルクは、言葉を切った。「それでこそ、わしの半分じゃ」とは、言わなかった。褒め言葉を飲み込む癖は、正体を明かした後も変わらないらしかった。今は、その理由が分かる。褒めれば、自画自賛になるからだ。
*
「じゃあ、これからは」と俺は、聞いた。
「俺は、何を、すればいい。神骸を、取り戻すのか。権能を、集めるのか。……あの五柱に、復讐するのか」
「それは、お前が、決めることじゃ」
ヴェルクは、言った。
「じゃが、一つだけ、今できることが、ある。……お前が、もう視てしもうたものが、あるじゃろう」
俺は、思い出した。
エレン。豊穣の御子。あの人の魂に、打ち込まれていた、巨大な楔。人をめりめりと軋ませる、あの間違った形。
「あの、楔か」
「御子とは、そういう仕組みじゃ。神の力を人の魂に、楔で打ち込む。宿した人間は、力を得る代わりに、ゆっくり蝕まれて、死ぬ。……あの豊穣の娘も、そうじゃ。あのままなら、長くはもたん」
俺の、指が、疼いた。あの夜、拳を握って堪えた、あの疼きが。
「抜けるのか。あの楔は」
「お前の眼と、手なら。……ただし、抜くだけでは、駄目じゃ。抜いた力を納める『器』がいる。お前が、打つんじゃ。……祈りを込めて。ものを作ることで」
ヴェルクの、真鍮の目が、光った。
「では、坊主。始めるとするか。……あの、豊穣の御子を——『直す』ぞ」




