第61話「お前は、私だ」
「お前じゃ」の意味を、俺は、すぐには、呑み込めなかった。
「……冗談、だろ」
「冗談で、こんな所まで連れてくるか」
ヴェルクの声は、静かだった。覚悟を決めた者の声だった。
「話す。全部、話す。……長くなる。座れ、坊主」
俺は横たわる巨人の傍らに、座った。角灯の火が、じじ、と鳴った。そして、忘れられた神は、千年、誰にも語らなかった話を語り始めた。
*
——始まりに、神は独りだった。
世界を創り、それから独りであることに、耐えられなくなった。だから、自分の力を一つずつ切り分けて、家族を創った。光を。武を。豊穣を。水を。風を。分け与えるたびに、自分は弱くなった。最後に手元に残ったのは、家族を創るのに使った力——「創る」力、「直す」力だけだった。
「五柱の神と。それを祀る、五つの国。……お前も、知っておろう」
知っている。この世界の常識だ。
「あの五柱はな、坊主。元は、一人の神の切れ端じゃ。父から、切り分けられた、五人の子よ」
「……父」
「そして、その父は——」
ヴェルクは、横たわる巨人を、見上げた。
「異界から来た、蛇に唆された子らに、討たれた。神々の戦争、と呼ばれとる。教会は『狂神を五大神が討った』と言うがな。……逆じゃ。討たれたのは、父のほう。狂神と呼ばれ、名を削られ、歴史に泥を塗られたのは——父のほうじゃ」
俺は思い出した。地下工房の、削られた碑文。祭壇の、六つ目の空席。神棚の戒めの窪み。全部が、繋がっていく。この世界の至るところに刻まれた、「六番目の不在」が。
「父はな。……最後まで、子らに手を上げんかった」
ヴェルクの声が初めて、湿った。
「討たれると分かっていて、防ぐだけで、攻めんかった。子を傷つけられんかったんじゃ。……直属の兵も、真の力を出せば大陸ごと子らを砕くゆえ、封印したまま。負けると、分かっていて。……あれは、そういう馬鹿な神じゃった」
ヴェルクは、五柱の名を、一人ずつ呼んだ。
ソール。ガルド。テラ。ミア。メル。
同じ調子ではなかった。最初の名には、頼りすぎた悔いがあった。次の名には、頑固さを知る苦笑が。三つ目には、庇うような柔らかさ。四つ目には、癒せなかった痛み。最後の名には、帰りを待ち続ける響きがあった。
ヴェルクには、一人ずつ、顔が見えているのだろう。
俺には、まだ、見えなかった。何一つ、思い出せなかった。ただ、胸の奥に、五つの空席がある。その輪郭だけが、名を呼ばれるたび、順番に痛んだ。
父は、その五つの顔を知っていたからこそ——槌を振り下ろせなかった。
*
「魂は、逃げた」
ヴェルクは、続けた。
「体——この神骸は、封印された。五本の楔で、大地に縫い留められて。じゃが、魂だけは、匠の力の最後の一片を使って、世界の外へ、逃れた。神のいない、遠い世界へ。そこで人として、生き直した。……何度も。何度も。最後の生が」
「……前世の、俺」
「真壁修。設備保全のエンジニア。……直せるものは、直す、が口癖の、な。台風の夜に人を助けに行って死んだ。攻めずに、守って、死んだ。……父と、同じに」
俺の前世。四十二年の、あの人生が。この横たわる神と、一本の線で、繋がっていた。
「そして、千年かけて、魂は故郷へ帰る道を紡いだ。貴族の三男坊として、転生した。神の記憶は、封印したまま。……お前じゃ、坊主。お前が、還ってきた父じゃ」
*
「じゃあ、あんたは」
俺は、膝の上の小さな人形を、見た。
「あんたは、何だ。ヴェルク。忘れられた工匠神。俺と契約した、この人形は」
ヴェルクは、少し笑った。いつもの、ふぉっふぉ、ではなかった。もっと小さくて、もっと、寂しい笑い方だった。
「……魂を全部は運べんかったんじゃ。神格の欠片と、記憶の大半は、この神骸の傍に残った。それが、わしよ。『ヴェルク』——古い民が、父を呼んだ名じゃ」
「つまり」
「わしは、お前の、置いていった半分よ。……坊主。わしは、お前じゃ。お前が、還ってくるのを、千年、ここで待っておった、お前の、半分じゃ」
*
俺は、長いこと、何も言えなかった。
契約の夜。「五大神の親戚か」と聞いた俺に「まあ、遠からず」と答えた声。「神匠って何だ」に、二度同じ答えを返した声。眠り丘が動いた夜の、「気づかれたか」。ヴェルクの器を視て白く灼けた、あの光。全部が、今、意味を変えた。二周目の意味を。
「……なあ、ヴェルク」
やっと、出た声は、掠れていた。
「なんで、今まで、黙ってた。……契約してからずっと、一緒だったのに」
「二つ、理由がある」
ヴェルクは、指を一本、立てた。
「一つ。……器が、育つ前に真実を注げば、魂が拒む。壊れる。作り話じゃない。……お前、聞いたじゃろう。ドガの怪談を。哭原の奥から、正気を失って帰った学者の話を」
ロディン隊。「あれは、泣いている」と繰り返した帰還者。
「あれはな、坊主。器なき魂が、真実に触れて、壊れた、実例じゃ。この神骸の近くまで来て、封印越しに、真実の切れ端に触れてしもうた。……器が足りねば、真実は毒になる。だから、待った。お前の器がこの話に耐えられるまで」
「もう一つは」
ヴェルクは、指を下ろした。真鍮の目が、横たわる神骸を見た。それから、俺を、見た。
「……もう一つは、術でも、理屈でも、ない」
小さな、神様の声が、震えた。
「わしは、父じゃ。お前の、半分じゃ。……その父の口から。自分の子が自分を裏切った話を。語りたく、なかった。それだけ、じゃ。……すまん。ずるい、理由じゃ」
角灯の火が、揺れた。
俺は、横たわる自分の抜け殻を見た。五本の楔に、引き裂かれた、神を。裏切られ、名を削られ、それでも、子に手を上げなかった、馬鹿な神を。
そして、自分の両手を見た。物を直すことしか、能のないこの手を。
「……俺は」
声が、出なかった。
「俺は——誰だ」




