第57話「踏み絵」
フィオナさんが、それを見てしまったのは、コルヴォ滞在の三日目の夜だった。
俺は、迂闊だった。コルヴォがいる間、療治場は当然閉めていた。だが、その夜、村の縁に一頭の魔物が来た。子を孕んだ鹿に似た獣。産気づいて、苦しんでいた。難産だった。母体の図面が、悲鳴を上げていた。
放っておけなかった。俺は、闇に紛れて、村の縁へ出た。ミナが、シルヴァが、供をした。触れて、視て、戻す。捻れかけた命の道をあるべき形へ。子が生まれた。母鹿が、俺の手を舐めた。
——その一部始終を。
角灯を提げたフィオナさんが、塀の陰から見ていた。
*
「……領主、様」
彼女の声は、震えていた。角灯の火が、揺れていた。
見られた。よりによって、教会が「目」にした、その人に。魔物と心を通わせる罪——眷属隠し。落とし子より重い、火刑の罪。それを証人の前でやってしまった。
俺は、言い訳を探さなかった。探しても、無駄だった。母鹿は、まだ俺の足元にいた。生まれたばかりの仔が、震えながら乳を探していた。この光景に嘘をつく言葉は、ない。
「……フィオナさん」
「言わないで、ください」
彼女が、遮った。
「今、何か言われたら、私は——聞いてしまう。聞いたら、報告、しなければならなくなる。私は、教会の目ですから」
彼女は、震える手で、角灯を握り直した。
「私、着任してから、ずっと変だと思っていました。この村の祈りの気配が。……今、分かりました。祈られていたんじゃない。この村は——祈って、いたんです。誰かが。何かを。ずっと、直し続けることで」
母鹿が、仔を連れて、闇へ帰っていった。去り際、母鹿は、フィオナさんのほうを一度見た。敵意のない澄んだ目で。
フィオナさんは、その目を、見送った。長いこと。
*
翌朝。
フィオナさんは、礼拝堂にこもった。
俺は、外で待った。何も、言えなかった。彼女が、コルヴォに報告すれば、この村は、終わる。しないなら——彼女が、教会を裏切ることになる。生真面目なあの人が。手続きを何より重んじる、あの人が。
昼過ぎ。彼女が、出てきた。
手に書きかけの報告書を持っていた。教区提出用の、様式に則った、几帳面な字の。俺は、その紙を見た。半分ほど埋まっていた。「当村における、異端の兆候について——」その先が。
フィオナさんは、俺の前で、立ち止まった。
そして。
その報告書を、静かに、二つに破いた。
「……様式は、大事です」
彼女の声は、まだ震えていたが、目は据わっていた。
「手続きは、手続きです。私は、そう信じて生きてきました。……でも」
破いた紙を、彼女は、両手で、握りしめた。
「様式に、『生まれたばかりの仔鹿を、見殺しにせよ』とは、書いていない。……私は、見たものを信じます。教義より、様式より——この目で見たものを」
そして、彼女は、筆を置いた。
報告を、しないという選択。生真面目な司祭見習いが、生まれて初めて、手続きを破った音だった。




