第56話「台帳の男」
コルヴォの帳面には、俺の人生が、数字で書いてあった。
「聖暦一〇一二年、六歳。ハーヴェル男爵家三男、アルト。鑑定結果——回路なし。……無録、というやつですな」
心臓が、跳ねた。俺のあの鑑定記録が、聖都の書庫を経て、この男の手にある。
「回路なしの子供は、大陸に珍しくありません。年に何百人と出る。……ですが」
コルヴォは、頁をめくった。
「回路なしと記録された者が、辺境に流れ、半年で廃村を蘇らせ、魔物の大群を鎮め、神授の兵を一夜で直す。……これは、年に何百人も出ません。というより——歴史上、一人もいない」
数字だった。この男は、剣も術も使わない。ただ、数字を並べる。並べられた数字は、どんな尋問より、逃げ場がなかった。
「討伐報奨、ゼロ。産品の質、規格外。被害、ゼロ。……この村の帳簿は、一行ごとに、常識を外れている。一行なら、偶然。二行なら、幸運。だが、全部の行が外れているなら——」
コルヴォは、帳面を閉じた。
「それは、もう、意志です。誰かの意志が、働いている」
*
俺は、領主の顔で応じた。数字には、数字で。
「恐れ入りますが、審問官どの。数字が『常識を外れている』ことは、罪ですか」
「いいえ」
「では、私は、何を疑われているんです」
「何も」
コルヴォは、微笑んだ。柔らかく。
「まだ、何も。私は、疑いを証拠なしに口にしない主義でしてね。……ただ、『気になる』のです。気になったものを、放っておけない。それだけの、因果な性分です」
話が通じてしまう。それが、この男の、一番の恐ろしさだった。怒鳴られたほうが、まだ、楽だった。理を尽くして、静かに外堀を埋めてくる。反論すればするほど、こちらの輪郭が、はっきりしていく。
*
コルヴォは、村に数日、滞在した。
その間、彼は、フィオナさんを呼んだ。
「司祭見習い殿。あなたは、教会の目として、この村に遣わされている。……この村で、教義に反することが、起きていないか。魔物との不適切な関わりはないか。定期の報告を、私に上げていただきたい」
命令だった。断れる、立場ではなかった。フィオナさんは、青い顔で、頷くしかなかった。教会が、彼女を村を見張る「目」にした。彼女自身の、意志とは、関わりなく。
*
コルヴォが、村を検分して回る間。
俺は、マルタ婆さんと二人になった。婆さんは、渋い茶を啜りながら、ぽつりと言った。
「……銀の坊。あの審問官な、あたしゃ、初めて見る顔じゃない」
「え?」
「いや、あの男は初めてさ。だが、ああいう連中は、昔っから、来るんだよ。この村に」
婆さんの目が、遠くを見た。この村の記憶そのものの目だった。
「あたしが子供の頃も、その前も、その前も。……この村の領主はね、銀の坊。どれだけ逃げても、死んでも、必ず、次が補充されたのさ。誰も欲しがらん、税も穫れん、こんな辺境にだよ。おかしいと思わんかい」
「……補充、された」
「巡察もだ。飢饉の年で、他の村が見捨てられても、この村の巡察だけは、絶えなかった。……まるで、誰かが、この村を無人にしたくないみたいに、ね」
俺は、背筋に冷たいものを感じた。
捨てられた村。誰も欲しがらない土地。俺が「捨てられた」と思っていた、この場所。それが——千年、誰かに、見張られ続けてきた。無人にならないように。領主を絶やさないように。巡察を絶やさないように。
「……マルタさん。それって」
「知らないよ。婆の勘さ」
婆さんは、渋い茶を飲み干した。
「ただね。あの審問官が、その『誰か』の、正体に一番近いとこにいる。……あたしの勘は、そう言ってる」




