第55話「特別監察」
「奇跡の谷」の噂は、あれから萎むどころか、育っていた。麓の町では、気の早い巡礼者が道を尋ねるようになり、フィオナさんの元には、教区から「貴教区に、聖蹟の類、ありや」と、探りの文まで届き始めていた。
——その矢先だった。
その男は、供も連れず、静かに来た。
帝国の調査隊のような鎧も天幕もなかった。灰色の詰襟に、審問官の徽章を一つ。荷は、書物の詰まった鞄が一つきり。それだけで、村の空気が、帝国の一団が来た時よりもずっと重く、冷えた。
「聖ソール法国、内陣所属。コルヴォと申します」
内陣。フィオナさんが、その言葉に目に見えて青ざめた。教会の、最奥。名を聞くだけで、司祭見習いの膝が笑うような場所。そこから、審問官が、じきじきに来た。
「特別監察の任を帯びております。……そう硬くならず。私は、拷問も、火刑も、好みません。ただ、話を聞きに来ただけです」
物腰は、柔らかかった。それが、かえって、怖かった。
*
コルヴォの背後に、もう一人いた。
年老いた、盲いた男だった。聖導の法衣。目は白く濁り、何も見えていないはずなのに——その顔が、俺のほうを、まっすぐ向いていた。
「聖導の、オルフェ殿です」とコルヴォ。「誓約術の、頂点位。人の嘘を視る方でしてね。同席いただいております」
盲目の老人が、ゆっくりと口を開いた。しゃがれた、けれど、底の澄んだ声だった。
「……領主どの。少し、こちらへ」
俺は進み出た。逃げる理由が、なかった。逃げれば、それこそ怪しい。オルフェは、見えない目で、俺の顔を——いや、顔の、もっと奥を覗き込んだ。長い、沈黙だった。
やがて、老人は、微かに眉を寄せた。
「……妙な」
「オルフェ殿?」
「この者、嘘をついておらぬ。……いや、そうではない。嘘が、視えぬのだ。この眼が開いてから、四十年。あらゆる人間の、あらゆる嘘を視てきた、この儂の眼に——この者だけが、何も、映らぬ」
コルヴォの眉が、上がった。
「嘘がない、ということでは?」
「違う。……嘘のない人間は、視える。正直の形が、視える。だが、この者は——」
オルフェの、濁った目が、俺を貫いた。
「この者は、この世の帳簿に、載っておらぬ。まるで、初めから、ここにいなかったかのように。……儂には、それしか視えぬ」
村の空気が、凍りついた。俺自身、背筋が寒くなった。この世の帳簿に、載っていない。盲いた老人の言葉は、比喩のはずなのに——なぜか、心臓の、一番深いところを掠めた。
*
コルヴォは、その言葉を帳面に、書き留めた。慌てず、騒がず。ただ、几帳面に。
そして、茶を勧められると、断らずに受け、マルタ婆さんの淹れた例の渋いやつを一口飲んで——何も言わず、しかし、自分で淹れ直した。手際が、恐ろしく良かった。渋みが、きれいに抜けていた。
「……美味い茶葉だ。淹れ方が、惜しい」
それだけ、言った。マルタ婆さんが、この日、初めて言い返す言葉を失った。
コルヴォは、茶を飲み干し、鞄から一冊の帳面を出した。何かの写しだった。
「さて、領主どの。世間話は、これくらいにして」
物腰は、あくまで柔らかかった。
「ときに——あなたの、六歳の鑑定の話を聞かせていただけますか」




