第6話「銀の狼」
金色の目は、三晩続けて現れた。
一晩目、俺は屋内に退避した。当然である。二晩目、目は同じ場所から動かず、村には何も起きなかった。三晩目、俺は月明かりの下で気づいた。あれは狼だ。それも、馬鹿でかい。肩までの高さが、俺の胸ほどもある。毛並みは月の色——銀だった。
「ヴェルク。あれは魔物か」
「じゃろうな」
「村を襲う気か」
「襲う気の獣がな、坊主。三晩も塀の外で行儀よく座っとるかの」
言われてみれば、そうなのだ。
魔物とは、天罰の獣だ。狂神の眷属。人を見れば襲う——と、教会は教える。俺も今世の十八年、そう教わってきた。だがあの銀狼は、ただ座って、こっちを見ている。何かを待つみたいに。
四晩目。俺は塀の崩れ目まで、出た。
我ながらどうかしている。だが三晩観察して、確信に近いものがあった。あれは「待って」いる。待っている相手の心当たりは、まるでないが。
十歩の距離で、俺と狼は向かい合った。
近くで見ると、なお大きい。そして——月明かりの下、俺は見てしまった。狼の左の脇腹から後ろ脚にかけて、毛並みが渦を巻くように乱れている。古傷だ。それも、ひどい。
見てしまえば、もう、いつものあれが来る。
──設計図──
生体:狼(大型・詳細不明)
状態:左後肢、旧創。筋、骨、共に『捻れて』治癒
備考:治癒の形が不自然。あるべき形の上に、別の形が「上書き」されている——なんだ、これは
──────
生き物の図面は、視ないようにしてきた。人を視ると、体の中の余計なものまで視えるからだ。だが、一度視えたものは、消せない。
その傷は、間違っていた。
怪我が治り損ねたのとは違う。傷そのものが、あるべき形を外から捻じ曲げられたような——設計図の上に、誰かが乱暴に線を引き直したような、そういう間違い方をしていた。千年物の虫歯が、頭の中で疼き出す。
「……なあ、あんた」
狼に、話しかけていた。
「その脚、痛むだろう。走る度に、多分、ずっと」
金色の目が、俺を見た。
「直させてくれないか」
自分でも、正気の沙汰じゃないと思う。魔物だ。一噛みで俺の首は飛ぶ。だが狼は、長いこと俺を見つめたあと——ゆっくりと、その場に伏せた。首を伸ばし、傷のある脇腹を、俺の側へ晒した。
言葉より雄弁な「どうぞ」だった。
*
触れた毛並みは、見た目より柔らかかった。そして、熱かった。生き物の熱だ。
図面が全開になる。捻れた筋。捻れた骨。その捻れの、元を辿る。あるべき形は、ちゃんと図面の底に残っている。上書きした誰かの線が、その上で今も、ぎちぎちと軋んでいる。
物なら「戻れ」の一言だ。だが生き物は初めてだった。俺は椀を直した時の何倍も、慎重に、祈った。壊すな。急ぐな。あるべき形へ、ゆっくり、還れ。
「——戻れ」
狼の体が、一度、大きく震えた。
捻れが、解けていく。何十年——あるいはもっと長く、この体を苛んでいた「間違った線」が、砂が水に溶けるように薄れて、消えた。手応えで分かった。図面の上に、正しい線だけが残った。
狼は跳ね起きた。
俺は尻餅をついた。食われる、と思ったのは白状しておく。だが狼は俺に目もくれず、その場で二度、三度、跳んだ。左後脚で地を蹴って。確かめるように。それから走った。塀の外周を、一周、風みたいに。
戻ってきた狼は、俺の前で止まった。
そして——前脚を折り、深々と、頭を垂れた。
「え、いや。伏せ、とかは教えてないが」
狼は頭を下げたまま、動かない。犬の「伏せ」とは、何かが決定的に違った。あれだ。前世の時代劇で見た。殿の前で家臣がやるやつだ。いやいやいや。
「頭を上げてくれ。俺はただの修理屋——じゃなくて、領主で……いや、どのみち、あんたの主じゃない」
狼はゆっくり頭を上げ、俺をじっと見て、それから闇に消えた。
翌朝、領主館の戸口に、丸々太った野兎が三羽、きちんと並べて置いてあった。
「……ヴェルク。あの狼、俺に懐いた、ってことでいいのか?」
「ふぉっふぉ」
人形は、答えなかった。笑っただけだった。こいつのこの笑い方は、「言わぬが花」の意味だと、俺はもう学び始めていた。
*
それから、妙なことが続いた。
夜の見回りで、塀の外に獣の気配が増えた。銀狼だけじゃない。複数。だが、何も起きない。畑も鶏小屋(鶏はまだいないが)も無事だ。気配は、村をぐるりと囲む一定の線から、決して内側に入ってこない。
まるで、線引きされたみたいに。
「なあ、マルタさん。この村、魔物の被害って、最近いつ」
水汲み場でマルタ婆さんに聞くと、婆さんは記憶を辿る顔をした。
「……そういや、あんたが来てから、鶏泥棒(いたち魔物のことらしい)も出とらんね」
「その前は?」
「しょっちゅうさ。縁の村じゃもの。……妙だね、銀の坊。あんた、何か拾ったかい」
「いえ。何も」
兎を三羽拾ったとは、言えなかった。
*
その日の夕方だった。
村の南、街道の方角から、風に乗って音が届いた。
長く、二度。短く、一度。
聞き覚えのない音だったが、意味は体で分かる類の音だった。ザラが薪割りの手を止め、大剣を担ぎ直すのが見えた。
「角笛だ」と彼女は言った。「——狩人が、獲物を追ってる」




