第54話「幕間⑤・内陣」
聖都ソリアの大書庫は、この日も、音がなかった。
コルヴォの机の上の帳面の山は、しかし、前より高くなっていた。「気になりの帳面」——彼の私的な備忘録に、リンデ村に関する一行が書き足されてから、数か月。その数か月で、彼の几帳面な字は、白紙の頁を、着実に、埋めていた。
『討伐報奨、依然ゼロ。護衛業収入は増加。整合的。ただし——』
『北緩衝帯にて、魔物大群の「鎮圧」事案。当該村が関与か。駐留軍調査、成果なし』
『駐留軍アルマ、当該村付近で故障、翌日復旧。技師報告「何者かが整備した」。……整備?』
コルヴォは、羽根ペンを置き、指の腹で、こめかみを押さえた。
数字が、増えていた。偶然は三つまで、というのが彼の経験則だった。四つ目から先が、彼の仕事だ。そして、リンデ村を巡る「偶然」は、とうに、四つを超えていた。
討伐が消える。魔物が鎮まる。型のど真ん中に収まりすぎる鎌。故障したアルマが一夜で蘇る。地図に載っていない村。
一つ一つは、説明がつく。だが、全部が、同じ一点に集まっている。それが、コルヴォには、耐えがたかった。彼は、説明のつかないものを、放置できない性質だった。それで、審問官になった。
*
彼は、立ち上がり、書庫の奥へ向かった。
普通の閲覧室ではない。鍵のかかった、鉄の扉の向こう。内陣の、席次を持つ者だけが入れる、最奥の書庫だった。
そこには、表の記録には決してない、もう一つの歴史が、眠っていた。千年前の、勝者たちの、本当の記録。「狂神」と呼ばれたものの、本当の名。封印の、本当の場所。そして——「物の声を聞く者」を、なぜ狩り続けねばならないのか、その、本当の理由。
コルヴォは、その最奥の記録の、一枚を、抜き出した。
古い、色褪せた地図だった。テラ王国の北端。哭原の縁。表の地図では、灰色にぼかされ、村の印一つない、あの一角。
だが、この、内陣の地図には——印が、あった。
小さな、黒い、六角形の印。千年、内陣が、代々、監視し続けてきた、ある一点を示す印。
その印の、真上に。
現在の地名が、後世の誰かの手で、書き足されていた。
『リンデ』
コルヴォの、指が、止まった。
偶然が、五つ、六つと重なった村。地図に載らない村。魔物に慕われ、神授の兵を蘇らせる、名も知らぬ達人のいる村。
その村が——内陣が、千年、封印を見張ってきた、その、真上に、建っていた。
*
コルヴォは、長いこと、その地図を見つめていた。
やがて、彼は、鉄の書庫を出て、上席への面会を、申請した。
「北辺リンデ村の件。……通常の巡察では、手緩い。特別監察に、格上げを申請します」
上席は、書類越しに、面倒そうに彼を見た。「たかが辺境の村一つに、審問官が動くのか」と。
コルヴォは、頷いた。冷めた茶を、いつものように、飲み干して。
「ええ。……たかが、村一つです。ですが、その村一つが、あの地図の、あの印の上に、建っている」
上席の、面倒そうな顔が、消えた。
「……あの、印の」
「はい。ですから——」
コルヴォは、静かに、告げた。
「監察官には、私が、参ります」
上席は、もう、何も言わなかった。
*
その夜。私室に戻ったコルヴォは、「気になりの帳面」の新しい頁に、几帳面な字で、一行だけ書き足した。長い仕事になる予感のする夜に、いつもそうするように。冷静に、几帳面に、そして、一片の私欲もなく。
『リンデ村。——私が、直接、行こう』




